阿弥陀経に学ぶ 第33回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


 前回は宝樹荘厳で、極楽は宝樹で飾られていることを述べました。今は宝池荘厳で、宝他によって飾られております。樹だけでは潤いがありません。泉水があり家があって景色のよい庭になりますし、また水がなかったら樹は枯れてしまいます。仏さまはこの世の人人に極楽を願う心を起こさせるため、この世に順じて宝樹についで、宝池によって荘厳をさました。

 極楽にはところどころに七宝の池があって、八功徳水がなみなみと満ちております。水は柔軟心と言って、やわらかい心をあらわします。『観無量寿経』には、水の徳をたたえて「その宝柔軟なり」と。また『無量寿経』には「この光に遇えば、三毒の煩悩が消滅し、身も心も柔軟になって、喜びに充ち、道を尊ぶ心が起こる」というような意味の言葉があるように仏さまの心は柔軟心です。ですから、仏道を行ずる菩薩の精神は、柔軟心であります。どういうことにも随順し、これを受け入れて咀嚼し、本来の願いを実現するのが柔軟心です。

 それに対して裟婆は自我を固執する心でつくる世界ですから剛直です。石のような堅い心です。どういうことも自分を中心に考え、しかも自分を善しと固く執着しますので、自分の思うようになるものは受け入れるが、ならぬものは入れることができません。ですから狭少有碍であります。考え方が狭くかたくなですから、障りにしばられて安心して落ち着くところが定まりません。その石のような剛直な心が砕かれるところに水のような柔軟心が出てくるのであります。

 柔軟心には、自我の主張がありませんから、他の中に自分を見いだし自分の中に他を見いだしていかなるものも受け入れて消化することができるので石と水とは互いに対立して争うということはありません。争っても石は水に勝つことはできません。ということは水はよく石を包むからです。ですから水のように柔軟な、やわらかい心は、また本当に堅い心といってもよいでしょう。金剛堅固の信心というと、私どもは石のような信心を考えていないでしょうか。それは自力の信心です。自力の心が砕かれた水のような柔軟心が、混合堅固の信心であります。このように、水は総じて柔軟心をあらわしますが、『阿弥陀経』には、八功徳水と示され、『称讃浄土経』には、その八種の徳が具休的に説かれています。

 一には澄浄。澄んできよらか。人間は煩悩によって濁っております。その濁りを浄めるのが法水の徳です。

 二に清冷。きよらかで冷たい。瞋恚の煩悩で身を焼かれる思いをして生きておりますが、その熱さを冷まして清涼の喜びを与えるのです。

 三に美味。甘くおいしい。水の美味は表現できぬように、法水の美味は人生の経験を通して、身をもって味わいとった人が、これはこれはと讃えるよりほかにないほど、深い味があります。

 四に軽軟。かるくやわらかい。私どもは貪欲と愚痴で身が重くなっております。法の水が軽く軟かいということは、貪欲と愚痴を救って、いつでも、どこでも身軽に、やわらかく処することができるからです。

 五に潤沢。うるおい。人間の知識だけでは、潤いがありません。仏の智慧の法水が流れるところに、潤いが出てきますし、潤いのあるところに、よき智慧が出るのが潤沢の徳です。

 六に安和。安らかに和する。水は柔軟心ですから、自然に安らかに身を立て自他にうなずきあい和することができる。

 七に除飢渇。うえとかわきを除く。法水は砂漠のような人生のオアシスです。この法のオアシスを口にして、飢えと渇きをいやし、命をとりもどすことができるのは、法水の徳です。

 八に諸根。身も心も養い育てる。生活の中でこの法水を飲めば、身心が養い育てられることをあらわします。

 このように仏さまは、水という形をもって説法をしておいでになります。これを水声説法と言います。『無量寿経』には、浄土の菩薩方は、おりおりに池に入って水俗をやらせ、水声説法を聞かれるとありますが「法を聞いて極楽を願う人は、苦しみ、悲しみ、悩みの多い人生であるけれども、八功水に浴して、心の垢を洗い除くことできることが、教えられております。


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