ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
又舎利弗、極楽国土、七重欄楯 七重羅網 七重行樹皆是四宝、周匝囲繞。是故彼国、名曰極楽。
また舎利弗、極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。みなこれ四宝をもって、周匝し囲繞せり。このゆえにかの国を、名づけて極楽と曰う。
極楽は、宝によって荘厳された国であります。『無量寿経』にも『観無量寿経』にも、宝樹、宝地、宝池、宝楼等、宝がたくさん出てまいります。『阿弥陀経』には、七宝とか四宝とあります。考えてみると、人間が心から望んでいるのは、宝にちがいありません。人生は宝探しだと言ってもよいでしょう。今、仏さまが人間の一番望んでいる宝をもって荘厳されたところに、極楽を願わしめて本当の宝を与えたいという、大悲のお心がうかがわれます。
ところで人間は、安らかな心で、満足して生活したいというっ願いを持っております。そしてその願いが実現するような宝を手にするために、朝から晩まで走り回っております。ある人は、金や財産さえあれば安心して生活ができる。「地獄の沙汰も金次第」でないかと、懸命に努力しております。確かに金銀財宝といって、金や財産がなくては生活ができませんが、その一面、お金や財産があるために身を滅ぼしたり、互いに争って親子兄弟ですら他人になることがありますし、またどれだけ持っても満足することがありません。
あるいは子宝と言います。けれども育てた子に先立たれたり、子どもと意見が合わず対立して、「子は三界の首かせ」と言うこともあります。というように、一つひとつ吟味をしますと、この世の物の中には本当の宝はないということになります。しかし、現実の世相を見ると、本当の宝がみつからぬため、金や子どもや地位名誉等、本当の宝にならぬものを手当たりしだいに追い求めて、心の安まるときがありません。怒ったり、憎んだり、ねたんだり、泣いたりして、死ぬまで求め続けます。
仏さまは、この世のありさまを見とどけて、はかりなき命と光である真実の功徳こそ本当の宝であって、安心も満足も、この裏実の功徳によって与えられることを教えられ、功徳の宝によって極楽を荘厳されました。ですから、『無量寿経」には極楽を安楽世界といわれ、また天親菩薩は『浄土論』に、「もろもろの人々が心から願っているところは、本願のおはたらきによって、悉く満足せられる。故に私は、彼の阿弥陀仏の国に生まれたいと願いたてまつる」と、表白されました。
また極楽は、宝樹荘厳と言って、宝の樹によって飾られております。樹は大他かち生え大地に根ざして、命いっぱい生きるように、如来の命の大地にしっかりと足をつけて、命いっぱい生きる極楽の生活をあらわします。七重の行樹ですから、林の木は重なり合っていても、並びよく生え、乱れておりません。
そのように、極楽の生活は、命が幾重にも重なり合っていても、互いに支えあって、美しく調和がとれております。空には網がかかっております。網の一つの結び目は他の結び目と交わっているように、互いに命の交わりをもち、解け合ってにぎやかです。四宝は、金、銀、瑠璃、水晶の宝石ですが、これは涅槃の四徳をあらわします。極楽は涅槃の国です。迷いの火の消えた心の平和の国で、常住にして変わることのない、どんな苦楽にも惑う必要のない、すべての束縛から離れ、煩悩のけがれのない、清浄の四徳を具した国であります。ですから、極楽はどこへ行っても宝樹によって飾られ、四徳が満ちている、調和のとれた、にぎやかな世界です。
それに対してこの世は、分別を頼りとして生きております。分も別も分けることで常に自と他とを分けて自分に執着しますので、互いに心の交わりを持つことができません。いろいろ困ることの多い中で一番心を痛めるのは、自と他が通じ合わぬことではないでしょうか。自分を立てようとすれば他が立たず、他を立てようとすれば自分が立たぬ。しかも、人間の心は自是他非で、自分を是とし他を非とすることしか考えられませんので、互いに対立しつぶし合いをして、心の底には調和のあるにぎやかな生活を願いながらも愛憎が幾重にも重なり合って、身も心もすりへらしております。
ですから仏さまは、心の底に共通してうずいている心根をかねてしろしめして、深く痛む心をもって、極楽世界を願えと呼びかけていてくださるのであります。
旧ホームページからの移転