阿弥陀経に学ぶ 第31回

  ただ聞くよりほかなき教え
    <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


 先回、この世は一切苦であると言いましたが、仏教では具体的に、四苦八苦と教えています。四苦は生老病死です。人間は生まれたかぎり、老病死をだれも逃れることができません。老いることは淋しいことですし、病むことは不安で、死は怖れであります。六十年七十年の人生ですが、身にこたえる実感を、親鸞聖人は、「生死の苦海ほとりなし」とおおせになりました。

 八苦は四苦のほかに、愛別離苦、求不得苦、怨憎会苦、五陰盛苦を言います。愛別離苦は、家族や友人など、愛し合う人と生き別れたり、死に別れをする苦です。求不得苦は、求めようとしても得られぬ苦です。ことに今日は、物はたくさんあるけれども、お金がないので手に入れることができない。だから、お金をもうけるために、身も心もすりへらして、苦しみを深めております。怨憎会苦は、憎む人と会う苦です。家族ても因縁があれば、恨み憎みたいような人と顔を会わせていなければならぬような苦です。

 五陰盛苦は、五陰は環境も含めて身心です。盛は身心のはたらきが盛んであり思うようになることで、そのことがまた苦になる。人間は分別を中心に人生をたてますから、病気は苦であるが健康は楽と決めて、健康を望み病気を憎みます。あるいは、貧乏は苦であをが金持ちは楽と決めて、金持ちを求め貧乏を嫌います。しかし、現実のありさまは、健康はいつ病気になるかもしれぬし、健康であることが原因で、思いがけぬことに苦しむこともあります。金持ちはいつ貧乏になるかもわからぬような不安な状態ですし、また金のあることが、苦しみの原因にもなります。そういう苦を恐れたり、苦の原因になるような楽なら、結局は苦ではないでしょうか。 仏さまから見れば、楽という苦にすぎません。ですから五陰盛苦はまた、私どもの身心は苦しみを盛る器であるという意味もあるようです。このように、どうなっても四苦八苦を出ることができないのが、人間世界の悲しいありさまです。

 阿弥陀仏は、大悲のお心をもって、「身心の憂いや苦しみはひとつもない、無量清浄の喜びや楽」(『称讃浄土経』)のある極楽世界を建てて、私どもを呼びさまし、四苦八苦を背負って歩むことのできる生活を、与えてくださるのであります。こう言いますと、極楽は楽があるところなら、苦があるのではないか。苦がなかったら、楽もないのでないかという疑問があるかと思います。わからんではありませんが、極楽の楽は、人間の分別で考える楽ではありません。無量清浄や喜びを楽といわれ、また大楽とも、常楽ともいわれるような楽であります。

 『涅槃経』には、こういうことが説いてあります。なぜ大楽というかと言うと、「楽と言うても、この世の不純な楽が断たれている。人間の求める楽を断たなければ、それはやはり苦と言わなければならぬ。苦があるから、大楽と名づけることはできない。この人間の楽を断っているから苦はない。苦もなく楽もないのが大楽である」とあります。こういう表現をもって、仏さまが教えようとしてくださる意味は、人間の分別で決める苦や楽を超えて、しかも人間の苦や楽の底から開かれるような楽が極楽であり、また大楽であり常楽であると言うことでありましょう。

 そのところを蓮如上人は『御文』に、「人間は不定のさかいなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがうべきものなり」と、妙を得たお言葉で教えられました。この常住の極楽こそ、実は不定のさかいと言われる、人間世界を成り立たせてくださる源泉であります。

 極楽を願う人には、分別をたのみとせず、どこにも身を落ち着け、与えられるものを背負いて、生活を尽くすことのできる徳が与えられます。都合のよい楽は受け入れるが、都合の悪い苦は嫌うのでなく、苦む楽も受け入れ、わが身に引き受けて、いよいよ深く広い人間として成長できる心は、かすかであっても極楽の徳であります。私どもは、極楽の徳にあずかってこそ、四苦八苦のこの世にあって、憂いや苦しみのあることのない、喜楽のある人にせられると言ってよいでしょう。


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