ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
少し面倒なことを申しますが、極楽と阿弥陀仏はどういう関係をもってはたらきをあらわされるか、ことに功徳荘厳ということが重ねて出てまいりますので、はじめにこのことについて述べたいと思います。
七高僧の第二祖の天親菩薩に、『浄土論』というお聖教があります。『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』と『浄土論』とは、浄土真宗では欠くことのできない経と論になっております。ことに親鸞聖人は、『浄土論』と七高僧の第三祖の曇鸞大師がご製作になった『浄土論註』に深く教えを受けられました。天親の「親」と曇鸞の「鸞」の字をもって、親鸞と名のられたほどです。
この『浄土論』には、阿弥陀仏の浄土は、国土と仏と菩薩の三種の荘厳によって成り立っているとあります。国土は阿弥陀仏がはたらきをあらわされる世界で、阿弥陀仏の環境です。仏は阿弥陀仏で、環境に対して主体と言います。菩薩はその国の人々です。荘厳は厳かに飾ることで、形のないものが形をあらわして飾られることです。阿弥陀仏の形のない真実功徳のはたらきが、形をあらわして飾られた環境が国土荘荘厳ですし、主体が仏荘厳であります。
『阿弥陀経』には、浄土は樹や池や楼閣等によって荘厳されているとありますが、べつに浄土に樹や池や楼閣があるわけではありません。けれども裟婆世界の衆生の苦を抜くために浄土をを壮厳されるのですから、娑婆世界に順って真実の功徳が形どられているのであります。ですから、どの形にもそのひとつひとつに、仏の真実の功徳が形どられております。このことを功徳荘厳と申します。
このお経のご説法を、私どもの祖先が生活に生かすために安置されたのが、お内仏です。私どもが毎日おまいりをするお内仏は、浄土の荘厳で、昔からおかざりと言います。ご本尊は仏荘厳ですし、お灯明やお花やお香は国土荘鼓です。おかざりですから、こちらから仏さまに差し上げるのではありません。仏の真実の功徳が形をあらわして荘厳され、形をとおして私どもを導いてくださるのであります。したがってお内仏は、お荘厳に導かれて、浄土を願う、心をいただくところといってよいでしょう。
このことを念頭において『阿弥陀経』をいただきますと、「これより西方に、十万億土の仏土を過ぎて、世界あり名づけて極楽と曰う」は、国土荘であります。「その土に仏まします、阿弥陀と号す」は、仏荘厳です。そして、国土荘厳の極楽と.仏荘厳の阿陀仏の功徳を、裟婆世界の私どもに与えてくださる道が、「今現に在して法を説きたもう」のであります。今現在説法であります。今現には、何年何月の今でなく、いつでもの今です。お釈迦さまのときも、親鸞聖人のときも、今日も今であります。
曇鸞大師の『浄土論註』に、「国土の名字仏事をなす」とあります。極楽国土の功徳全体を名号におさめ、その名号は声にまでなってこの世になりさがり、ねむりを呼びさまして極楽国土を願う身に育ててくだきるのであります。その名号は、種々のお言葉によって説法されますし、また極楽荘厳の形をもって、説法をしておいでになります。樹も池も楼閣もみな法音を出して、妙なる法を説いている。その「法音を聞く者はみな、自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心を生ずる」とあります。
お釈迦さまのこのご説法は、考えてお説きになるのではありません。説かれるお釈迦さまご自身が、今現に阿弥陀仏のご説法を聞いておいでになるのです。
ですから、聞いておられるお弟子方もまた、お釈迦さまのご説法のままが、阿弥陀仏の今現在説法であったにちがいありません。お言葉をとおして阿弥陀仏のご説法がじかに聞かれ、その徳が聞いているお弟子方の心の底にしみとおって、いよいよ仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心を、おこさずにおれなかったのでありましょう。
このご説法は、今日の私どもにも聞こえるのであります。念仏を申し法を聞くことは、今現在説法を聞くことであります。また、聞法によって聞く耳が開けるなら、日常生活の中で、縁にふれて極楽の法音を、いただくことができるのであります。
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