ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
お釈迦さまは、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う」と、仰せになりました。七高僧の第五祖の善導大師は、「十万億の刹を超過して」と、超え過ぎると申されました。十万憶の仏土については、玄奘という人が訳された『阿弥陀経』の別のお経に、『称讃浄土経』というお経があります。
このお経には、「百千倶胝那由他の仏土」とあります。百千は百が千で十万ですし、倶胝は億をあらわす梵語です。那由他は数の多いことを示します。親鸞聖人の『和讃』には、「百千倶胝の劫をへて」とあります。またその仏土の量はどれほどかというと、三千大千世界と言われておりますから、十万億の三千大千世界を過ぎて極楽があるということです。イントドの人々の世界の考え方から出た説でありましょう。
このことを私どもの生活にひきあてると、十万億の国というのは、人間のあらゆる経験をあらわします。人間の一生は、さまざまのことを経験し、十万億の国を通り過ぎるのです。それでは極楽はどこにあるかというと、ただ通り過ぎてあるのでなく、超え過ぎてあるとあります。
超えるというのは、私どもは自力いっぱい努力を傾けて通り過ぎますが、自力の執着心は根が深いので、十万憶の国の果てまでいきますけれども、自力の延長線上に極楽はないことを、超えるという言葉で教えられました。超えるは、立場がかわるということです。極楽は自力では無効である。そういう自分を知り、自力を捨てるところに開ける、真実の世界であります。
このことは、考えて言っているのではありません。仏さまが私どもの足下を見届けて、言い当ててくださった言葉です。いかがでしょうか。私どもはそれぞれ自分で目標を決めて努力します。金を儲けたいと金の国をめざす人、子どもの成長を願って、子どもの国をめざす人等、その人その人の国がありますが、かりに願いが叶っても、そこから次の問題が出てくるのが世の常で、結局どの国にも落ち着くところがありません。ですから自力の執心の作るこの世界は、行っても行っても極楽へは手が届きません。この世界はどこを捜しても極楽はないのです。
それならどこにあるかというと、十万憶の国を超え過ぎてある。この超過の二字によって、極楽はこの世界の延上長線上にないことが教えられておりますし、私どもはこういうことをはっきりと聞く必要があるのであります。私どもは十万億の国を超過して極楽のあることを教わりました。ところが『観無量寿経』には、「此を去ること遠からず」とあります。遠いとあるかと思うと近いとあって、矛盾するようなことが言われています。これはどういうことでしょうか。善導大師は、この矛盾するところに大事な意味を読みとられて、「此を去ること遠からず」について、このように解釈しておられます。
第一に、自力では行くことのできない凡夫の分を知れば、極楽は如来が建てて凡夫に与えてくださる世界であることが知られる。第二に、仏の智慧を得れば、その一念にいくことができる。第三に、そういう身になれば、極楽はおのずから拝まれてくる。そしてすでに向こうから迎えられ、摂めとられ、照らされて生きている身であることを知るという意味のことを、仰せになっております。この言葉によって了解されるように、私どもは自力に立っていると、十万億土まで延ばしても手が届きませんが、仏の智慧を得れば、すでに迎えられ、摂めとられ、照らされてある身であったのであります。
ですから、このことに気づいた人の実感からいえば、今まで自力を頼みとして、極楽世界を汚していたことのもったいなさがわかって、拝まずにおれなくなるのであります。極楽はあるとかないとかでなく、智慧を開いた人には、拝まずにおれぬ世界です。そしてその世界が、私どもの魂の故郷であり、本当の世界であったのであります。
このように、「十万億の仏土を超過して」と、「此を去ること遠からず」の言葉を照らし合わせて、その意味をたずねますと、極楽世界の法味を身近に」愛楽することができます。
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