ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
爾時仏号 長老舎利弗 従是西方 過十万憶土 有世界 名曰極楽 其土有仏 号阿弥陀 今現在説法
その時に、仏、長老舎利弗に告げたまわく、「これより西方に十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。
序論(序分)が終わって、本論(正宗分)にはいります。
お釈迦さまは長老舎利弗の名を呼んで、一言一言諭すように説法をします。説法は、「これより西方に、十方億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う」という言葉からはじまります。 私はかつて、ある人とこういう話し合いをしたことがあります。
「十万億土西に極楽があると聞いていますが、地球は円いので西へ行くとまたここへ帰ってくるのでないですか」
「そういえばそのとおりです」
「それなのに十万億土西に極楽があるということは、どういうことですか。昔の人は素直に信じたかも知れませんが、今日は知識が発達していをので、とても信じられません」
「私もそう思います。小さいとき父から、西は仏さまがおられるので、西足で寝てはいけないと聞きましたが、何のことかわかりませんでした。しかしその後、その意味がわかりました」
「どういう意味があるのですか」
「そうです。その、意味を聞くことが大事です。西方という言葉で、何を教えようとせられるかを聞かねばなりません。お釈迦さまのおっしゃる西方は、地球でいう西方ではありません。人生のまちがいない方向を西方と教えてくださるのです。方向のない人生を迷いといわれますが、迷いを迷いと知らずに迷っている私どもに、まちがいなく歩む方向を教えてくださる言葉です」と、語ったことでした。
これから『阿弥陀経』をいただくのですが、はじめに心しておきたいことは、仏教には西方、極楽、浄土、往生、他力等のたくさんの言葉がありますが、どの言葉も仏さまの真実の智慧を聞き開いた人が、真実の世界を言葉として教えられたのです。
ですから仏教の言葉は、真実の智慧を聞き開いた人でないとわからぬのが道理です。それを人間の分別で受け取り、人間の都合のいいように解釈すると、仏法でなくなりますし、たいへんな誤解を生じます。
例えば、極楽はごく楽な、往生はへこたれる、他力本願は依存的なことに解釈され、本来の精神が曇って、人生の問題にこたえ得る生きた教えになっていないと言っては言い過ぎでしょうか。ですから、この言葉によって仏さまは何を教えようとされるか、また私どもの日常生活にどういう意味があるかということを心して聞かねばなりません。
そこで西方ですが、今も言いましたように、人生の間違いない方向を示された言葉です。私どもはこの人生をどの方向に向かっているでしょうか。どちらかを向いてはいます。貯金ができたら、子どもが成長したら等、確かに一つの方向ですが、それは自分の都合のよい方向です。都合は都合によって変わりますから、方向があるようですが、さてというと、自信をもって歩むことのできる方向が、はっきりしません。そういう私どもに、まちがいない方向を西方と教えてくださったのです。
七高僧の第四祖の道綽禅師が『安楽集』に、「日は東より出て西に入り、月も東より出て西に入る。天地万物みな西に入るのである。万物の終帰するところ、即ち我々人生の帰するところである。魂の落ちつくところである。であるから浄土は西方にある。阿弥陀仏も西方へ浄土を建立されたのである」(金子大榮師の訳による)とあります。
考え方によっては、西でなくとも、東でなくとも、北でも南でもよいではないかということもありましょうが、自然のありさまとして、あるいは実感として、日月星辰をはじめ天地万物が東から出て西に入る。すべての物の終いに帰するところであります。
ですから西方はまた、私どもの人生の帰る方向であり、極楽は終いに落ちつくところであります。極楽は後ほど詳細に出てきますが、すべての人がそこに帰らなければ落ちつくことのできぬ魂の故郷です。方途に惑うている私どもに、帰る方向を西方と、落ちつく依りどころを極楽とお示しくださいました。今日、私どもはたくさん物を持ちましたが、不安であり空しいのは、何がないのでもありません。方向と依りどころがはっきりしないからです。こういう大事な要を、はじめに総じて教えられた言葉です。
旧ホームページからの移転