ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
乾陀訶提菩薩 常精進菩薩 與如是等諸大菩薩
乾陀訶提菩薩・常精進菩薩、かくのごときらのもろもろの大菩薩
今度は乾陀訶提菩薩でありまれすが、 これはインド語のガンバハッテンという名を漢字で写したものでありまして、中国語に直して、香象菩薩とあらわされています。これは『無量寿経』に出ています。香というのは風に乗って遠くまでひろがっていくもの、しかもこの匂いをかいだ者に、すがすがしさを与える清涼剤でもあります。象は人を乗せて、どんな深い林、ジャングルでもまっすぐにつき進んで道を開いていく力を持っております。したがって今でもインドでは、道のないけわしい山路を旅するときは、象に乗っていくといわれています。
このように香と象とで例えてあらわされているこの菩薩は、人々を背負ってけわしい人生をわたり、香り高い教えを流伝して、心の安らぎを与えるという行を、ひろく行じられる菩薩であることがあらわされています。
次いで常精進菩薩ですがこの菩薩とよく似た名前の不休息菩薩という方がおられます。常精進はたえず励むということ、不休息は休まない、たえまなくということで、同じことのように受け取れます。いずれにしても行にかかわることをあらわした名前ですが、菩薩の行には二つあります。一つは自分が仏になるために、あくまでも智慧を磨き、修行をつんでいくことでありますが、これはあくまで自分のためでありますので、自利の行といわれています。
それだけではありません。自分さえ助かればよい、他人はどうでもよい、そういう心では助かったとはもうせません。自分さえよければよいという、それは迷い心であり、その心が苦しみをまねいているのです。皆といっしょに幸せになっていこうというのが明るい心であり、その心ではじめて世の中は幸せがもたらされます。この心に立って力をつくすのが第二番目の利他の行であります。
そこで不休息菩薩というのは自利について、まず仏になるために、きびしく自分を磨くことに、一意専心努力されるという面がこの菩薩の特徴でありますが、その反面、この『阿弥陀経』に出てこられた常精進菩薩は、利他に努力の方向が向かうという面が中心になっていることをあらわした名前ともうせましょう。
以上、四人の菩薩方の名前をあげて菩薩は終わっていますが、これだけではないというところに「かくのごときらのもろもろの大菩薩」という言葉があります。これは以上あげた四人の菩薩以外にも多くの菩薩方がおられるということですが、ここで注意しておきたいのは大菩薩ということであります。大というのは普通でないとか、価値があるという意味で、ほめあげる言葉によく用いられていますが、人について用いられるときには、偉い人という意味になります。、
たしかにそういう用い方もありますが、また特別の用い方もあります。ただ菩薩と呼ぶ場合と大菩薩と呼ぶ場合にもーつの区別が考えられます。だとすると、どのような区別が考えられるでしょうか。
菩薩は仏になるための段階ですが、これにはただ証りということだけにとどまらず、厳しい現実を通しての実践(行)ということが大事になってまいります。そうでないと、ただ証った人ということだけで仏にはなれません。このための修行に10の段階があって、一つひとつの段階をつくして、自分の迷い心を破って具体的な証りを身につけていくのですが、これにはたいへんな努力がいります。ところがこの努力には落とし穴があるのです。それは努力が努力していることをさまたげるのです。
たとえば翌日に大事な用件があると前の晩に寝つきにくいことがあり、今夜はよく眠っておかねばならぬと思えば思うほど、目がさえてくることがよくあります。これは眠ろうとする努力が眠らせないよっにしているのです。また、忘れようとすればするほど、思い出すこともあります。
このことが菩薩にもあって、努力の果てに努力に行きづまるのですが、ここに一つの大きな転換がおこります。これはまず、努力の無効を知ることですが、そこに不思議に仏の力がはたらいて、仏力(他力)によって仏への修行が成就してきます。これが大菩薩でありますが、仏道は他力が本筋であります。
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