ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
文殊師利王子
菩薩についてお話しましたが、今度は四人の方の名前があげてありますのでそれについでお話しましょう。
文殊師利、これは原名のマンジェシリを、そのまま漢字で写したものですが、『無量寿経』では妙徳とあらわされています。法王子というのは法の王子、仏さまの跡継ぎという意味ですが、これはすべての菩薩は、やがて仏になる方ですからこう呼ばれます。文殊菩薩だけに限られた呼び名ではありません。菩薩のことを仏子と呼んでいるお経も多いのです。
しかし法王子を他の菩薩には余りつけず、この文殊菩薩にだけつけることが多いのは、菩薩方の中でもこの方は、特にすぐれて代表的な方であったということでしょう。そのすぐれている点は智慧であります。だから昔はよく「三人寄れば文殊の智慧」などと申しましたが、われわれが三人ぐらい集まっても、とてもおよびもつかぬでしよう。先に言いましたこの方のまたの名は妙徳菩薩ですが、これは非常にすぐれた智慧の功徳があらわされています。
この文殊菩薩のすぐれていられたことを物語るお経がありますので、それについてお話しておきましょう。それは有名な『維摩経』に出ている物語であります。それはお釈迦さまが、文化のすぐれた、人情味豊かなヴァイシャリ国においでになったころのお経であります。お経の主人公は維摩という人ですが、この国にお釈迦さまのお弟子で、まことにするどい証りと、果てしない広い心を持っていられた維摩居士(居士とは在家のお弟子のこと、前回申しました在家の菩薩です)という方のことであります。
あるとき、この方が病にかかられたのですが、これを聞かれたお釈迦さまは、お弟子に対して見舞いに行ってくれるようにと頼まれます。
最初は舎利弗にでしたが、舎利弗は尻り込みします。「とても私には維摩を見舞う資格はありません。前に私は、静かな林の中で心をしずめてじっと座っておりました。そこへこられた維摩は、『心が静まるような所で心をしずめるのは何でもない。そういう修行だけをしていると、騒がしい所へ出たときにどうするか、よく考えなさい』といわれ、返事ができませんでした。どうぞお許しください」。
仕方がないので今度は目蓮に命じられましたが、「とても維摩のところへ見舞いに行く資格はございません。かつて私はにぎやかな街の中で、在家の求道者のために法を説いておりましたが、そこへ維摩がこられて聞いておられました。後でこういわれました。『あなたの説法には過ちがある。それはまず自分の前にいる人々を、自分の考えたとおりの人々だと思いこむ固執があります。だが人々は必ずしも自分の考えたとおりの人々ではありません。したがって、自分の思いだけでの説法は適当といえません。また在家の人々に、出家のみが歩めるような道を説かれるのも適当ではありません』、こういわれて返事ができませんでした」。
そこで今度は摩訶迦葉に命じられたのですが、迦葉も「世遵、とても私には維摩のところにお使いする資格はありません。私はぜいたくな食事をしないために、裕福な家をさけ、貧しい家で托鉢をしておりましたが、維摩は私に『すべてのものは平等であり、人間もそうである。その心になって食を受けるべきで、それでなければ供養した人の功徳にならないでしょう』といわれて私は一言もありませんでした。とても維摩のところへは参れません」。
そこでお釈迦さまは摩訶迦旃延、阿ド楼駄、羅喉羅、阿難などに次から次へと命じられましたが、みな恐れ入りながら、お断りいたしました。
最後にお釈迦さまは、文殊菩薩に指名されました。これに対して菩薩は「あの方(推摩)とはとても相手になれません。深い証りを開いておられて、智慧も弁才(智慧を明らかにする方法)もすぐれておられて、私のごとき者には到底およぶところではありません。しかし世尊のご命令とあれば、謹んでお受けいたします」さすがです。こうして文殊菩薩は出かけられました。
そうすると今まで尻り込み心ていた他のお弟子方も、これはおもしろくなってきたというのでしょうか、後に従ってぞろぞろとついて行きます。
かくして維摩のところに到着した文殊は、維摩に対してまことに鋭い質問を出し、それに応じて維摩はまた鋭く答えます。『維摩経』はこの意味ですばらしいお経です。が、今は文殊菩薩のすぐれていられたことを紹介するにとどめます。
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