阿弥陀経に学ぶ 第22回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>

并諸書薩摩訶薩并びに諸の菩薩摩訶薩

 大比丘衆、すぐれた出家のお弟子方が1250人おられたと、このお経にはありますが、その中から代表的な16人の方々のお名前が挙げてあり、それは終わりました。

 次いで、それにならんで多くの菩薩方がおられたといわれています。菩薩摩訶薩という言葉は一寸分かりにくいでしょうが、菩薩だけでよいのです。摩訶薩はていねいにいった言葉で、菩薩というのは仏の智慧を習い修めて仏になろうという人のことで摩訶薩というのは大士ともいいかえられていますが、本当に立派な一人前の人ということで、これは菩薩をほめた言葉であります。

 そこで問題は、前には比丘が出ておりました。今度は菩薩ですが、比丘と菩薩とはどう違うのかということであります。比丘というのも菩薩というのも仏のお弟子であることに変わりはありませんが、比丘というのは前にも申しましたように出家のお弟子であります。出家というのは妻子・眷属(親族)、すべての人間関係をたち切り、生活も職業とか、地域社会生活のすべてを捨て、すべての絆をたち切って、まったく個人になりきってそこから、自分を解決していこうとする、極めて純粋な態度でありますが、すべての人々が、このようになりますと、世の中が成り立ちません。またそういうことのできない人もおります。妻子はとても捨てられない、またそういうことの許されない社会事情もありましょう。従って到底職業を投げ出すわけにはいきません。

 仏教はこういう人をどうするか、捨ててよいのか、いやこういう人々こそ仏教によらねば救われることがないという、仏にとってはかえって大切な人々であります。こういうことに仏教の側からの反省と、さらには一般大衆からの要請もあって、この雰囲気から大乗仏教が生まれてきますが、それまでの仏教を小乗仏教と呼ばれるようになりましたが、大乗仏教から生まれた求道者が菩薩であります。歴史的にいいますと、大乗仏教が興ってきたのは、親鸞聖人が浄土真宗の七高僧の第一番目にあがめていられる龍樹菩薩からであります。

 龍樹がお出ましになったのは南インドのナーガルジュナコンダでありますが、インドの潅漑、水力発電の国策のために、六・七年前にダムができ、残念ながら湖の底に沈みました。工事が終わり落ち着いたと聞きましたので、5年前思い切って訪れてみましたが、ナーガルジュナコンダは湖の底でした。しかし水没しない丘の上に、遺跡を多少運びあげてあり、そこに小さな博物館が建っています。遺品や写真、仏像それに地図、模型などで、ありし日の姿を偲ぶことができました。龍樹を中心に仏敬が非常に栄えていたことがわかりました。

 菩薩にもいろいろあって、観音さまとか勢至菩薩というようなすぐれた有名な方もありますが、そういう方だけが菩薩ではありません。名もない在俗の求道者が多いのです。龍樹が書かれた書物の中に「在家の菩薩」という言葉がたくさん出て参ります。もちろん、伝統に従って出家の菩薩もおられ、龍樹菩薩もその一人ですが、大乗の教団では在家の人々が主流であったようです。いわば大乗仏教は在家仏教であると申せましょう。

 親鸞聖人はお念仏の教団である吉水が打ちこわされたときに、僧(出家)の身分を剥奪されて、藤井善信という俗名が与えられ、越後へ流罪になられました。その後5年ほどして罪は赦されたのですが、僧の立場におもどりにならず、自ら「僧に非ず、俗に非ず、是の故に禿の字を以て姓となす」と告白しておられます。「僧に非ず」はいうまでもなく出家でないということ、「俗に非ず」俗は在家ですが、単なる在家でもない、求道者であるということ、ただ日常生活だけに溺れ切っていないということでしょう。禿ということは剃髪(出家)もしていないが、髪を結ん(在家)でいるのでもないという、ここに聖人御自身の深い自覚があらわされていると思います。

 本来、在家仏教であるはずの大乗仏教は、お経が中国に伝わると、いろいろの宗旨が生まれさらに日本に渡って、すばらしい発展をとげたのですが、いつの間にか出家の仏教というような形になってきました。これはお念仏以外の教えすべてでありまして、聖人はこれらを「聖道の諸教」といっておられます。民衆の手から離れてしまい、浄土の教えだけが大衆と共に在家の仏教として流れ、それを支えてこられたのが聖人でありました。


旧ホームページからの移転

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました