ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
摩訶劫賓那・薄拘羅
◇摩訶劫賓那
この人は中国の言葉では房宿と言いあらわされていますが、これには三つの意味が考えられています。その一つは、宿ということは昔から、中国では宿星といって、人間はそれぞれに星を持っていて、その星に宿って(所属)いるといわれています。この考えは中国のみに限らず、インドでも同じであります。
そこで一つには、この人は両親が星に祈って出てきたので房宿と呼ばれたと言われています。
二つには、この人は仙人の子孫であるとも言われていますが、星をよぐ見わけ、星占いに勝れておられたので房宿と呼ばれたとも伝えられます。
星占いは洋の東西を問わず今でも行われていますが、特に古い時代のインドでは盛んに行われ大いに尊崇されていました。
第三の意味には、星ということはなく、宿をただ宿るという意味に受け取られています。それはこの人が旅をしていたとき、ある夜、陶器師の家に泊まられましたが、劫賓那の後から一人の僧が入ってこられました。結局、同宿することになりましたが、その夜、劫賓那はこの旅の僧から非常に懇切に仏法の話を聞かされ、これによって一夜のうちに証りを開かれました。よほど熱心に真剣に聞かれたのでしょうが、しかし話された方がすぐれていられました。劫賓那と同宿し、一晩中、仏法について話されたこの旅の僧は、実はお釈迦さまだったのであります。これを知った劫賓那はすぐさまお釈迦さまのお弟子となり、熱心な修行に入られ、お弟子の中でもすぐれた方になられましたが、前に申しましたように星占いに勝れていられましたので、知宿第一と称せられました。
◇薄拘羅
この人はコーサンビイの生まれですが、幼少のころに不思議なことがありました。お母さんが生まれて間もない薄拘羅を抱いて、ガンジス河の支流、ジャムナ河で水浴していたとき、あやまって赤ん坊を水の中に落としてしまい、そのとき泳いできた大きな魚に呑まれました。この魚が流れを下ってガンジス河に入ったところで捕えられ、貴人に売られたのですが、不思議にも薄拘羅は魚の腹の中で生きていたために、その貴人に育てられました。やがて成長した後、出家されましたが、この人は容姿端麗にして、そのうえ無病息災、このために160歳まで生きられたと言い伝えられていますが、これは不殺生戒を中心に、戒を厳しく守られた結果だと言われます。薄拘羅は無欲の人で非常に清廉な生活をされました。食事の招きには応せず、金持ちの家の前に托鉢をしたこともありませんでしたまた謹厳な態度で一枚の衣で一生を貫き、心おごり高ぶることなく、自ら独り道を修めて、他に教えることはまったくなかったようであります。
お釈迦さまが耆闍崛山においでになったころ、この方もこの山に居られて独り衣を綴っていられましたが、このとき、帝釈天(仏法守護の神)は天上にあって、薄拘羅のことを見て、こんなことを思ったのであります。「この薄拘羅という方は、すでに深い証りを開いておられ、独り静かに道を修めて、世の中のことについて何の執着も持っておられない。しかしそのお心にある法を、他人のためにはお説きにならない。これはどういうことであろうか、私は自ら聞いてみよう」と天より下ってぎ耆闍崛山にこられました。「尊者(仏弟子の中で証った人)よ、苦しむ人々の迷い心をはらし、煩悩を破るためには、仏法を説く以上のことはないと思います。ところがなぜ尊者は独り静かに法をおさめ、他のためにはお説きにならないのでしょうか」
薄拘羅はこれに対して「世尊(仏)には舎利弗、目蓮、阿難を始め、多くの長老方がおられる。これらの方々はあますところなく法を説いて人々を導いていられる。だから私はただー人、黙って自分の道をはげみ、またそれを楽しんでいるのである」と答えられましたが、帝釈天は深々と薄拘羅を拝んで、天に帰って行ったと言われています。
アショカ王が仏跡を巡拝しお弟子がたのストゥバ(遺骨をおまつりする塔)をまわって供養を捧げましたが、他のお弟子には黄金を供え、薄拘羅のところへは黄金でないものを供えました。それは仏道を深く身につけられた方であるけれども、他の人に法を施されなかったという意味でしょう。しかし供養されたものはストゥバからころげ落ちてしまったと言われます。この方は無病第一と言われました。
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