ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
迦留陀夷
さて次は迦留陀夷というお弟子でありますが、この方は一名「黒光」という名前で呼ばれております。これはつまり黒びかりという意味でありますが、この人は顔だちはよかったのですが、まことに色の黒い人で、蛇の毒気にあてられて、生命に別状はなかったものの、肌が真っ黒になってしまったのだと言われております。迦留陀夷はお釈迦さまの国の国師(国の指導者)の家に生まれ、才気と弁舌にすぐれていたので、皆に知られておりました。
お釈迦さまがまだ国においでになって、人生の根本問題に悩まれて、城を出て修行したいと考えていられたころ、父の浄飯王はこの迦留陀夷を侍者としてそばにおき、お釈迦さまの心をまぎらわせ、出家を思い止まらせようとされました。生まれつき快活で楽しむことの好きな迦留陀夷は、心をつくし手をつくしてお釈迦さまの心を晴れやかなものに引き立て、出家の心をひるがえされるように懸命の努力をいたしましたが、夢からさめられたお釈迦さまのお心には、つくられた明るきや楽しさは、いよいよ空しい黒い影でしかなかったようであります。
お釈迦さまの出家にまつわる有名な伝説として、四門出遊ということがあります。これは城から遊びに出られたときに、まず東の門から出られて老人をごらんになり、次は門を替えて南の門からお出ましになると病人をごらんになり、西の門からお出ましになると死人をごらんになり、北の門からお出ましになったときに、沙門(家を出て道を求め修行する人)に逢われたと言われます。これは当てにならぬ無常の世に、いかにのどかな繁栄を確保しようとしても、何の甲斐もなく、道を求めて生きる以外に、人生の歩むべき道のないことを示したものであります。このときお釈迦さまは一緒についてきた迦留陀夷に、ごらんになった光景の一つひとつを問われ、説明を求められましたが、さすがの迦留陀夷も返事に困ったと言われています。
迦留陀夷はちょうどお釈迦さまと同じ年頃であったようですが、才気も弁舌もお釈迦さまの心をひるがえすことができず、その後お釈迦さまはあらゆるとどめを振り切って出家してしまわれました。迦留陀夷はその後、才能が認められて、外交官のような仕事で大いに腕をふるいましたが、彼は頭もするどく能力もすぐれていたとともに、亨楽を求める心も強く、このため女性に関しても問題が多かったようであります。しかし彼はカピラ城にお帰りになったお釈迦さまの教えを受けて、思い切って出家いたしました。自分の心の中に起こって自分を惑わし自分を沸き立たせるような心、その自分の心をもてあましたのでしょうか。
前にも申しましたが、出家以前のお釈迦さまに侍者としてお仕えしたという因縁もあって、お釈迦さまを大切にし、心から尊敬し深い心づくしをはらっていたようですが、在俗のときの女性関係が復活したというような噂もあって、教団に物議をかもし、また、たびたび教団の静かさを乱すような失敗を繰り返して、そのつどお釈迦さまからお叱りを受けていましたが、一たびお釈迦さまから戒められたことについては、二度と犯すことはありませんでした。このことからも彼の犯す罪は、自分の持っている能力から起こってくる本能的、発作的なもので、自分ではどうにもならぬようなものであったと言えましょう。
また彼は自分に起こってくる情念と必死に闘いましたが、とうとう自分に打ち克って、さとりを開きました。お釈迦さまの感化力がしのばれます。
迦留陀夷の話でもうーつ有名な話は、ある夜托鉢に出ましたが、戸口に立ったとき、家の中から出てきた女房が、眼だけ光っている迦留佗夷を化け物と思って転倒気絶し、これがもとで流産しました。これ以後お釈迦さまから、夜の外出を止められたということもありましたが、さとりを開かれて以来の迦留陀夷は.ぶっつりと犯ちをたち切り、人々を教化することに力を入れられました。自分自身が深く迷い、みごとにそれを晴らされた休験が生きて説得力となり、人々の迷いを晴らさせることに大いに役立ち、教化第一と称せられました。
大変働かれた果てに、事が起こりました。それはある女性が、夫がありながら盗賊の親分のような男に心をひかれ、情を通じました。その矢先、迦留陀夷はこの女性の家庭を訪れて、邪婬の罪の深いことを熱心に説いたのですが、女は迦留陀夷が密通のことを知っていると感じ、夫に告げられては大変と盗賊に頼んで迦留陀夷を殺させました。多くの短所を持っていたのが、さとりによって全部長所となり、道に殉ぜられたのであります。
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