ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
驕梵波提・賓頭慮頗羅堕
◇驕梵波提
今夜は驕梵波提でありますが、お釈迦さまの最後の五人のお弟子に次いで、ベナレスの街の裕福な家の息子が五人、お弟子になりました。そのときの一人で、『無量寿経』では尊者牛王という名前で出ておりますが、この人は永い前生において、他人の田圃かろ少しずつお米を刈りとって、一年分たくわえて、それを食糧にして遊んで暮らしていたという業がありました。ために、永い生を牛に生まれるという報を受けたのでした。やがてその報を果たして、ベナレスの裕福な家に生まれてきました。
ところが永い間、牛に生まれかわりを繰り返してきたために、どうしても牛の性がぬけきれなかったようであります。そのためにこの人には妙な癖がありまして、一たん食べたものを、もう一度口の中にもどして、それを再び噛みこむという、よく牛がやっている反芻(ねりなおし)ということを人の前でもやりました。この癖はお釈迦さまのお弟子になっても止まず、他のお弟子がたはこのことを面白く思っていられたようであります。このことはまた人間のつくった業というものが、いかに根深く、その報が厳しいものかというととを思い知らされます。
しかしこの人は、業はそのまま受けながら、仏法に対しては深く厳しく求められましたために、天の神々から非常な尊敬と厚い供養を受けられることが多かったので、受天供(天の供養を受けること)第一と言われました。そして最後にはとうとう天上界にのぼってしまわれたと伝えられています。
◇賓頭慮頗羅堕
次の賓頭慮頗羅堕という方は、日本ではお賓頭廬さんと呼ばれて親しまれている方であります。私たちのお寺にはおられませんが、他の宗旨のお寺では見かけることがあります。
この方はよく本堂の縁側に坐っておられて、本堂にお参りに来た人が、このお賓頭廬さんの頭をなでて、その手を自分の身体の悪いところへ当てて撫でると、病がなおると信じられています。このために大勢の人々に撫でられて、つるつるに光っていられたので、頭のつるつるのことをお賓頭廬さんと呼びました。
インドの名前ではビンドーロ・バラドバージャというのを賓頭廬頗羅堕という中国語であらわされているのでありますが、この人はコーサンビーという国の国師(王さまの師匠)の家、もちろんバラモンの生まれではありましたが、どうしたことか生活に恵まれず、経済的にも家庭的にも不遇でありました。ために貧乏に悩まされつづけ、また心がせまく、一寸としたことでも大声でわめき立てる奥さんと、何でも欲しがる娘、しかしお金がないためになかなか与えられない、そのたびごとにこの娘は泣きわめくという、非常にひどい家庭生活にも悩まされつづけていられました。
丁度そのような折、偶然、お釈迦さまにお出あいし、静かな世界があるということを教えられて、翻然として決心し出家されました。お釈迦さまのお弟子になった賓頭廬頗羅堕は非常な努力を払って仏道修行に励みました結果、深いさとりと神通力を身につけられ、この国の王を深く教化されました。
しかしあるとき、この人は神通力が得意だったのでしょうか、大きな石を足にはさんで王舎城の都の上を飛んでまわったと言われます。人々はそれを見上げて、石が落ちてきはしないかと大いにおそれました。ある夫人は非常におどろいて転倒したのですが、お腹の中に赤ん坊を宿していましたので、このショックでとうとう流産してしまいました。このことがお釈迦さまに知れまして、厳しいお叱りを受けました。「何のためにもならぬ、ただ面白半分のために人をおびやかし、小さい命をうばった罪は重い。その罪の償いのため、次の仏(弥勤)が世に出るまで涅槃に入らず、末法の人々のために救いとなれ」と言われました。このため今でもマリシ山という山に住んで、その使命を果たしておられると言われております。
伝説によりますと、お釈迦さまの後200年ほどして、アショカ王が菩提樹(その下でお釈迦さまがさとられた大切な樹)を供養いたしましたときに、この賓頭廬頗羅堕は多くの阿羅漢をしたがえて空中にあらわれて、アショカ王の供養を協賛し大いに讃嘆したと言われますが、涅槃に入らずにいつまでも人びとのためになるということで、福田(人びとに幸せをもたらす)第一と言われております。
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