阿弥陀経に学ぶ 第17回

  ただ聞くよりほかなき教え
   こ<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


羅喉羅

 羅喉羅についてですが、この人こそお釈迦さまとお后の耶輸陀羅との間に生まれられた一粒だねの実子です。生まれられたのは出家をなさる直前だったと言われていますが、老・病・死という人の世の無常の姿に会われて、物思いにしずみ、いよいよ出家の決意を固めておられたとき、耶輸陀羅の実家から男の子が生まれられたという知らせが入りました。それを聞かれたお釈迦さまは、思わず「ラーフラ」とおっしゃったと言われています。ラーフラというのは障りということですが、出家の障りになるものが生まれた、と思わずおっしゃったのでしょう。これを報告に来た家来が勘違いをいたしまして、ラーフラという名前をつけられたと思い、実家へ知らせました。そこから羅喉羅という名前が出たと、このように伝えられているのです。

 お釈迦さまはこの後、一週間ほど後に出家されたと言われますが、障りというものは人格のすぐれた人にとっては、かえって意志を固めるための強い刺激になるのでありましょうか。城を出られるときにお釈迦さまは、羅喉羅の寝顔に「我れ必ず速かに仏陀となって汝を見よう」と言われ、6年後に仏陀になられました。仏になられて後3年頃(あるいは6年と言われますが)、故郷のカピラ城に帰られましたが、この前にも申したように、このとき血縁の弟子が出来ましたが、羅喉羅の出家もこのときであったと言われています。

 もしお釈迦さまがカピラ城にお帰りになったのが、仏になられて3年後とすれば、羅喉羅は九歳ほどであり、それより後としても11・12歳でありましょう。幼い故にお釈迦さまは、その指導を舎利弗におたのみになったようで、舎利弗も親身になってお世話し、ねんごろに教団の中に居る弟子の守るべき戒律を伝授いたしました。このためにまだ少年であった羅喉羅は、今までとはまるで変わった生活をするようになりました。

 父であるお釈迦さまを仏と仰ぎ、舎利弗の指導にしたがって、仏弟子としての戒を厳重に守っての生活でありましたが、少年の羅喉羅にはやはり少年らしく、無邪気ないたずら心もありました。お釈迦さまに深く帰依する人々は、暇を見てはお目にかかり、お言葉を聞くために大勢訪れたのです。しかし、その当時お釈迦さまは耆闍崛山と竹林精舎(ビンバシャラ王が寄附した最初のお寺)のどちらかにおられました。この間の距離は8㎞近くありますが、丁度その中間に診しく温泉の涌いている所があって(今もあります)、そこで人々は憩をとっていました。羅喉羅はよくここに坐っていて、お釈迦さまを訪れる人々から世尊はどちらにいられますかと尋ねられると、耆闍においでのときは竹林にましますと答え、竹林にましますときは耆闍にましますと答えてふざけたこともありました。

 このことが廻り伝わってお釈迦さまの耳に入りましたが、直ちに羅喉羅をお呼びになって、「出家は言葉をまもらねばならぬ。たとい冗談でも妄語をおかしてはならない」と。このように厳しく誡められたこともありました。

 大勢のお弟子がたの中で、最年少に属しておられた羅喉羅は、しかしながら釈尊の実子でありましたために、自分の行いや発言が、父である仏陀を傷つけはしないか、ということについて日常深い配慮をしておられたようです。このことから羅喉羅は仏弟子としての修行の中から、特に身をまもり口をまもり心をまもる戒に対して、ひたむきな努力を傾けられました。このためにお弟子の中でも、密行(細かい戒を厳重にまもる)第一と称せられるようになられました。

 釈尊御入滅の際、羅喉羅はそのお傍に侍したという言い伝えもあります。それによると羅喉羅は、父、世尊の入滅を見るにしのびず、お傍にいたたまれないで、あちらこちらに佇んでいたのですが、皆から言われてお釈迦さまの枕元へ帰って参りました。それに対してお釈迦さまは「羅喉羅よ、憂い、悲しみ、心を乱してはならぬ。お前は私のために子供らしい子供であったし、私もお前に対して父らしい父として過ごせたことを喜んでいる。私は今涅槃に入る、お前も必ず涅槃に入るように努力せよ」と言い残されたと伝えられます。

 夫婦、親子、兄弟の肉親への情を切り捨てて、ひたすら涅槃への道をまっしぐらに歩まれたお釈迦さまから、このお言葉を通して血縁に対する暖かいお心がうかがわれて、仏法は決して血縁を粗末にするものでないことを教えられます。


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