阿弥陀経に学ぶ 第16回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


阿難陀

 お釈迦さまの異母弟に当たる難陀につづいて阿難陀、この人は従弟に当たります。このお経では阿難陀になっていますが、その他のお経や物語では多く阿難と呼ばれ、その方が有名であります。さらにこのお経では、たくさんのお弟子方の中で、ただ名前を連ねていられるだけでありますが『無量寿経』や『観無量寿経』ではお釈迦さまが阿難をお説法の相手の一人として選ばれ、阿難に向かって諄々と説いておられます。この阿難も、お釈迦さまが故郷カピラ城にお帰りになったのをご縁として出家した人でありますが、以後お釈迦さまに寄りそい、影の形にそうようにお傍につかえ、どの説法も聞きのがすまいと熱心に聴聞し、また何かとお釈迦さまの身のまわりを親身になってお世話をし、最後、クシナガラでお釈迦さまが涅槃に入られるまで、付き添っておりました。

 しかし、それほどお釈迦さまに付き添って、お釈迦さまの教えを一番多く聞いた多聞第一と呼ばれていたこの阿難が最後まで悟れなかったという話があります。これについてはいろいろの説がありまして、中でも肯き易い説としては、阿難は悟れなかったのではなく、悟らなかったのだと言われていることであります。と申しますのは、阿難は自ら願ってお釈迦さまの従者になりました。侍者と言われておりましたが、これはいつもお釈迦さまのお傍に仕えて、何かと身のまわりのお世話をするという役目であります。

 当時、教団のきまりとして、お釈迦さまのお傍につかえ、身のまわりのお世話を申しあげる侍者は、まだ悟りを開いていない人に限るということになっていたようであります。なぜかと言いますと、お釈迦さまのおそばにいつも仕えておれば、悟りの機会にめぐまれる、もはや悟りを開いた人をお釈迦さまのお傍におくのは効果がない。こういうことでまだ悟れない人を侍者としてつけたと言われますが、なかなか合理的な仕組みであったようです。

 阿難はどのお弟子にもまして釈尊を深く尊敬し、お慕い申しておられたようであります。もし悟れば侍者からはずされる、そのためにわざわざ悟らなかったのだと言われております。いつまでもお釈迦さまのおそばにお仕えをし、お世話申しあげ、またお釈迦さまのお言葉を漏れなく聞きとりたい、これが阿難の切なる願いではなかったでしょぅか。悟りはなかったかも知れません。釈尊が涅槃に入られた後、教団の混乱を心配した摩訶迦葉は、この際お釈迦さまが残されたお言葉をまとめねばならぬと、他のお弟子方に集合を呼びかけて、お経の編集、編纂の会が開かれました。第一回結集と呼ばれております。このときに阿難は悟っておらないといぅ理由で参加を認められませんでした。

 阿難は悟りの人ではなかったのでしようか。悟れなかったのかも知れません。それは阿難が人間味豊かな情感の持ち主であったからだとも言えましょう。人間のいろいろの状況に心ひかれて無視することができず、人間世界をすかっと割り切って捨てるような証りを困難にしていたのではなかったかとも思います。しかしそれあったが故に釈尊のお言葉を底の底まで聞きぬかずにはおれなかったのでしょう。お釈迦さまの養母であったプラジャ・パティ、この人は仏教に志深く、女性ではあるが出家したいという強い願いを持っておられました。またこの他にも女性でありながら出家したいという志願を持った多くの人々が出てきましたが、この人々が阿難にたよって釈尊のお許しを無理にとりつけたこともありました。女性にも親切であったようです。 私たちの感じることは、阿難は悟りの人ではなかったが、信心の人であったのではないかということであります。そういう点で、私たちお念仏の道を歩む者にとりましては、阿難は身近な人に感じられます。阿難ほどお釈迦さまのお話を聞いた人はおらぬということで多聞第一と言われていますが、聞信に徹した人でありましょう。この人がおらないとお経が成り立たないということで、第二回の結集のときから阿難は加えられました。

 この『阿弥陀経』は舎利弗に対して説かれましたが、お釈迦さまより半年ほど前に舎利弗は亡くなっております。したがってこのお経が出来上がったのはまったく阿難の力ではなかったかと、今更ながら阿難が大切なお弟子であったことを感ずるのであります。


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