ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
難陀
△お釈迦さまと血縁▽
前回の周利槃陀伽につづきまして、今度は難陀、阿難陀、羅喉羅、この三人の方がならんでおられます。この三人はお釈迦さまの血縁関係の人でありますから、ここに連ねられたのでしょう。まず難陀は腹違いの兄弟、異母弟にあたります。阿難陀はよく略して阿難と呼ばれていますが、この人はお釈迦さまの従兄弟でありますし、羅喉羅はお釈迦さまの実子であります。
お釈迦さまは悟りを開かれた後、一時故郷のカピラ城をおとずれられました。喜んだ父の浄飯王は嫁のヤショ-ダラ(出家前の釈尊の夫人)や孫の羅喉羅と共に、お釈迦さまを家族としてでなく、仏さまとして丁重にお迎えいたしました。血縁の情もあってかカピラ城の人々が、仏教に対して非常に篤い尊敬心をいだいていたようであります。このため、釈尊の帰城を機縁に多くの人々が出家しましたが、このときに血縁の三人が出家されたのであります。
お釈迦さまとしては、自分の血縁に当たる三人を、何とか出家させたいと願われたに違いないと思われます。それは釈迦族(釈尊の一族)がやがて隣の大国、コーサラに亡ぼされるような運命にあることを予感されていたのでしょう。果たせるかなお釈迦さまの御在世中に、コーサラはカピラ城に進撃しました。そのときお釈迦さまは、その軍隊の通り路の枯れ木の下に立たれました。コーサラの王はなぜにそのようなところに、とお尋ねすると「親族の蔭は涼しい」とお仰せになりましたが、この言葉を聞いてお釈迦さまの心を察した王は軍を返しました。これが三度くりかえされたのですが、四度目には宿縁の深さを感じられて、もはやお立ちにならず、カピラ城は滅ぼされました。古今東西の偉人と言われる人の中で、お釈迦さまほど血縁関係の深い方はなかったかと思われます。
難 陀
難陀は、お母さんが釈尊の母親でありますところの摩耶夫人の妹、驕曇弥という方の生んだ人で、腹違いとは言いながら釈尊の弟でありますし、まして母親どうしが姉妹でありますから、難陀は釈尊と非常に似ておられたと言われております。このためときどき釈尊と間違えられて非常に恐縮したという話も残っております。
ところがお釈迦さまの切なるお勧めにもかかわらず、難陀はななか出家しがたいようでありました。というのはこの方の奥さんは孫陀利というまことに美しい方でありまして、この人に心ひかれて出家がなかなか決心できなかったようであります。そこで釈尊はいろいろの手立てをめぐらして、どうしても出家しなければならぬといぅ状態に難陀をひき入れられました。
そんなことでついには出家はされましたが、孫陀利に心をひかれた難陀は、たびたび教団を離れ、在家に立ちもどろうと考えたようであります。これにはお釈迦さまも非常に心を煩わされまして、いろいろ工夫をこらして、教団から離れようとする難陀の心を、何とか思いとどまらせようとされたようでありました。
ひ あるときには、この難陀を天上界へつれてゆかれて、たくさんの美しい天女たちを見せられたこともあったといわれております。美しい天女たちばかり、孫陀利も美人ではありましたが、この天女たちとはとうてい比べものにならぬと難陀は感じたようですが、しかし天上界から帰ってくると、やはり孫陀利が恋しくて、またぞろ心をひかれてしまったようであります。
そこで今度は難陀を地獄へつれていかれたと言われます。何の気なしに地獄へ難陀が来てみますと、鬼が大きな釜に湯をたぎらせていました。不思議に思った難陀が鬼に、
「何のためにこんなに湯をたぎらせているのか」と聞きました。
*
それに対して鬼は答えました。
「お釈迦さまのお弟子に難陀というのがおる。これがやがて出家をやめて堕落し、ここへ落ちてくることになっている。それをこの釜に入れてゆでるのだ」と言ったそうですが、難陀はびっくりして震えあがったそうです。
ここで難陀ははじめて教団から離れようとするような心を、とうとう思いとどまって、それ以後熱心に修行に打ちこみまして、ついに悟りを開きましたが、前にも申しましたように釈尊とよく似ているところから儀容第一という評判でありました。儀はたちふるまい、容はお姿、それが他のどのお弟子よりも一番すぐれていたということであります。
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