阿弥陀経に学ぶ 第14回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


周利槃陀伽

 さて今度は周利槃陀伽(周利槃特とも訳されています)という方ですが、原名はチュッーラパンダカと言い、この人の兄はマハーパンダカという人ですが、まず兄のマハーパンダカが出家し、つづいて兄のあとを追つてチュッーラパンダカも出家されました。兄のマハーバンダカは頭のすぐれた人で、出家すると日ならずして証りを開き、お弟子の中でも大事な場所におられましたが、周利槃陀伽はまことに頭のにぶい、何一つおぼえられないような頭の持ち主でありました。

 これには因縁がありましてこの人はお釈迦さまより前の仏さま、迦葉仏という方のところで出家し、教えを聞いておりました。その時はまことに頭も鋭く賢明な人でありました。そのころには(お釈迦さまのころもそうでしたが)仏が教えをお説きになった後お弟子たちは、聞いた仏の教えをそれぞれ暗誦(思い出してそらでとなえる)し、心に刻みこむことに努力しました。

 ところがある時、他の愚かなお弟子が、迦葉仏の説法がおわった後で、その教えを暗誦し、心に刻みこもうと苦労していたのですが、頭が悪いために、ときどき間違えたり、行きづまったり、ときには忘れてとぎれたりしながら繰り返していました。それを聞いていた、その時には頭のよかった周利槃陀伽は、その人の頭の悪さ、愚かさを笑いました。笑われたお弟子は、非常に恥じて、それ以後、暗誦をやめてしまいました。笑ったことは他の弟子が仏道に励げんでいるのを、とどめるという結果になりました。その報いで今度はまことに愚かに生まれ変わってきたのだと言われております。
 このような生まれあわせでありましたから彼はせっかく兄に従ってお釈迦さまのお弟子となり、教えを聞きながらも、お説法の一偏一句も暗誦できないという、まことに気の毒な状態でありました。最初のうちはいろいろかばってくれた兄も、ついにはあきれはてて「お前はとてもみこみが無い、ここを出て家にかえれ」と言われて悄然と涙にくれておりました。

 そこへお釈迦さまがおいでになって、悲しみにくれている周利槃陀伽に「どうしたのか」とお尋ねになりました。「私ほど愚かな者はございません。つくづく自分が情なくなりました」。聞かれたお釈迦さまは「お前は決して愚かではない。なぜなら自分の愚かさを知っている。自分の愚かさを知らない者が、本当の愚かものである。お前は他のことを考えなくてもよい、この箒を持って毎日掃除をしなさい。その時には必ず「〝塵を払え、垢を除け″と、この言葉をくりかえすがよい」と教えさとされたのであります。

 この人は愚かではありましたが、そのかわり極めて几帳面で義理がたく、約束はキチッと守り、言われたことは、その通りに実行する、そういう人でありました。したがって周利槃陀伽は蔭日向なく、お釈迦さまが見ておられても、見ておられなくても、言われたとおり一生懸命、毎日掃除をしておりました。この簡単な仕事を毎日くりかえしていたある日、ふとこんなことを考えたのであります。

 「お釈迦さまが私に教えられた言葉は、いったいどんな塵を払い、どんな垢を除くことであろうか。考えてみると人間にはそれぞれ皆、心の汚れがあるものだ、私にもある。してみれば私の心の塵をはらい、私の心の垢を除くことこそ、仏道の修行ではないか」こう考えたとき、愚かな周利槃陀伽のもだえが消えて、はればれとした境地が開けてきました。「この世の迷いは垢である。智慧は心の箒である。私は今から智慧の箒で心の迷いを掃き清めよう」こう決意した周利槃陀伽は、もう以前の周利槃陀伽ではありませんでした。

 やがてお釈迦さまから、心の解脱を得るのに、まことに巧みな人であると、ほめられるようになりました。この人の場合は正直であったからこそ、愚かであっても悟りをうることができたのでしょう。素直に愚かなものには邪見も驕慢もありません。知識人のように先入観も己惚れもなく、素直にお釈迦さまの教えを受け取ろうとします。周利槃陀伽はお釈迦さまが示されたことを、何一つ背くことなく実行した人であります。

 証りに、仏さまにもっとも近い人は、素直に自分の愚かさに気づいている人ではないか、ということをこの人によって教えられます。周利槃陀伽は素直で言われたことをキチッと守りました。それで多くのお弟子の中で、この人こそ義持第一(義は義理がたいこと、持は言われたことをキチッと守る)と人々からあがめられました。


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