阿弥陀経に学ぶ 第13回

  ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


離婆多

 この人は舎利弗の一番末の弟であったとも言われており、出家の志が強く、遂に志をとげて釈尊のお弟子になられたそうですが、仏伝の中にこの人の記述は余りありません。釈尊御在世の時代に活躍が少なかったのでないかと思われます。しかし非常に純粋なさとりを開いていられたので、無倒乱第一と尊敬されていました。

 このお経では名前をインド語そのまま写して、離婆多(リヴァタ)とあらわされていますが、中国的に翻訳された名前は離越と言われています。これはまったく煩悩を離れ、迷いを越えたということをあらわしており、離越という名前では有名な離越尊者のことを思い出しますが、この人のことだという説もありますから、ここに紹介しておきましょう。

 多分お釈迦さまの滅後のことだと思います。

 この人はインドの北寄りにあった「ケイ賓国」の田舎の村はずれにある小高い丘の上に庵をむすんで修行しておられましたが、非常にきびしい修行と、するどいさとりを身につけていられたので、人々から篤い尊敬を受けておられました。

 ところがある時のこと、その村に夜中、牛泥棒が入って来て、一頭の牛を盗んで逃げたのであります。朝になって村中が大騒ぎになりました。人びとが総出でいなくなった牛を捜しにあちらこちらを駆けずりまわりました。ちょうどその時、たまたま離越尊者が篤信の人から白い布の布施を受け、これを黄色い衣にするために、大きな釜にある種の木の皮を煎じて、その中に白い布を入れて黄色く染めあげようとしていられたのであります。村の人びとが丘にやって来ました時に、どうしたことか染めあがった布が牛の皮に、木の皮が牛の骨に、染汁が牛の血にかわってしまいました。おどろいた村人たちは、さっそくお上に訴え出ましたために、尊者は牛盗人として捕えられ都の牢獄につながれてしまいました。

 後になって村人たちは、自分たちが牛の皮と見、牛の骨に、牛の血と見たことが間違いだと分かり、とんでもない申し訳ないことであったと気付きました。けれども村の人びとは呑気なもので、お上へあらためて訴えなおすこともせず、十年ほどの歳月が過ぎてしまいました。

 ところがこの尊者の教えによって、さとりを開いたたくさんの人びとが諸方にあったといわれていますが、師匠の姿が見えなくなったので、お弟子がたは方々をさがしていたようですが、一向に消息が分かりません。中の一人が、かつて尊者が住んでおられた時に、丘の庵をおたずねしたことを思い起こし、この村にやってまいりまして、村人に尊者のことを尋ねました。そこで村人たちは忘れていた十年前を思い出し、えらいことをしたというので、急いで自分たちの誤解であったことを、お上に申し出ました。

 そこで離越尊者は牢獄から出されることになり、村人たちがお迎えに行きました。ところが牢を出たとたんに、神通力をあらわして、空中高く舞いあがられました。
 これを見た村人たちや牢の役人たちは非常におどろきました。そのおどろきは尊者の神通力もさることながら、そのような力を持ちながら、しかもまったくのぬれぎぬでありながら、どうして十年間も黙って牢獄の中で過ごされたのか、ということでありました。

 このとき尊者は皆にむかってこういわれました。「私がまだ悟りを開いていなかった昔のこと、悟りを開いていられた阿羅漢に対して、偽者だと侮辱したことがある。その報いでこのたびこういう業を受けた、ということを私は知っておった。もし牢をぬけ出せぱ、他のところでまた別の罪の償いをしなければならない。それが分かっておったから、自分は十年間、罪の償いのために、黙ってこの牢にこもっておったのだ」と。

 前にも申しましたが離越尊者つまり離婆多という方は、お弟子の中で無倒乱第一と呼ばれていました。無倒乱とは、ものごとをさかしまに考えない、あるいは混乱して考えることがない、問題について内にあることを外だと考えたり、すりかえたりしないということで、つまり言いかえるなら正しい道理というものをしっかりわきまえているということであります。それはただわきまえているということだけでなしに、その正しい道理に自分もしたがう、これが大事なことであります。

 「たとい牛盗人とは呼ばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべからず」と開山聖人がおっしゃったと『御文』に言われています。誤解されてもよいがうわべをつくるなという意味ですが、日本にまで伝もわっていたのであります。


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