阿弥陀経に学ぶ 第12回

  ただ聞くよりほかなき教え
    <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


摩訶倶■羅 まかくちら(■は「糸」偏に「希」という字 「チ」と読む)

 次は摩訶倶■羅という方でありますが、この人は「無量寿経」では尊者大住と呼ばれておりまして、舎利弗の母でありますルーパサーリの兄さんに当たります。

 父のヴァンガンタが、テッサとの問答に敗れたことは、舎利弗のところで申しましたか、彼はその時に父をたすける力の無かったこと、また妹のルーパサーリの知恵にもかなわないことの恥ずかしさを強く感じまして、知恵を磨くために修行の旅に出たのであります。
 この時彼は、もし修行が成就しなければ、それまでは爪を切らない、このような誓いを立てたといわれています。このために彼は非常に長い爪をはやしていましたので、「長爪梵士」と呼ばれておったといわれております。「長爪」というのはながい爪、「梵士」というのはバラモンの修行者ということであります。

 永い間の修行を重ね、諸方を廻り歩いていた時、彼はマガダ国の都、王舎城にやってまいりました。この時、王舎城には国王ビンバシャラがおり、お釈迦さまを非常に尊信していられたので、都の郊外に竹林精舎という僧院を建ててお釈迦さまに差し上げました。

 これは場所の選定がむつかしく、街に余り近くない、といって余り遠くもない処ということです。余り近いと騒々しくお弟子方の心静かな修行を妨げますし、余り遠いと一般の信徒がたがお詣りして説法を聞くことが出来ません。近からず遠からず、竹林精舎もそういう土地が選ばれて、最初に出来た僧院でありますが、そこにお釈迦さまがおいでになり、多くのお弟子のために説法をしておられました。有名な「般舟三昧経」はここで説かれたものであります。

 ここには目連とともに舎利弗がお弟子となり仏道に励んでおりましたがこのことを知っておりました摩訶倶■羅は、妹の子供である甥の舎利弗に、是非会っておきたいと思ったのでしょう。彼は竹林精舎をおとずれて、舎利弗に会うとともに、この甥がこうまでも尊敬し帰依している師匠という方は、どのような方であろうか、一度会っておきたいと思いまして、舎利弗の紹介で遂にお釈迦さまにお目にかかったのであります。

 このとき彼は突然このようなことをお釈迦さまに申し上げました。「師よ、私はこの世の中でいろいろのことが言われているが、それをすべて認めません」。

 すべてを認めず、何でもかでも否定する、これは今でいう虚無主義、ニヒリズムでしょう。少し頭の切れる人がおちいる心の病であります。これに対して釈尊は静かに言われました。「梵士よ、一切を認めぬというならば、その認めぬということも認めないのであろうか」
 この釈尊の鋭い問いに対して、彼はジレンマ(板ばさみ)におち入ります。認めないといえば自分の言ったことを認めないことになりますし、認めるといえば一つだけ認めるので、いっさいを認めぬという主張はなり立ちません。仕方がないから彼はついに「一切を認めぬということも認めない」といってしまったのであります。

 釈尊は言われました。「梵士よ、つまりそなたは、そなたの言葉が誤っていたことを認めていることになる。梵士よ、世間にはそなたのように、まちがいを見ていながら、まちがえている自分を捨てぬ人が多い。そのまちがっている自分を離れるものが少ない。世間にはいっさいを認めるというものもあり、いっさいを認めぬというものもあり、またある部分を認め、ある部分を認めぬというものもある。しかしいずれにしろこれらの主張に強く執着すれば、敵があらわれて争い、障害ができ、迷惑がかかる。智慧のあるものはこれを知って、その執着を捨てるのである」と、こんこんと釈尊はさとされたのであります。自分以外は一切捨てても、自分だけは捨てぬという私たちのしぶとい我執が知らされます。

 この釈尊の教えに感動したのでしょう。摩訶倶■羅はただちにその場でお釈迦さまの弟子となりました。

 やはり何といっても頭の鋭い人が揃った家がらに生まれた方でありますから、そのうえ永い間、諸国を迷い歩いてこられたので、釈尊の教えに初めて本当の道を見い出したという感激も手つだって熱心に仏道にはげまれたためにお弟子の中でもその鋭いさとりが目立ったのでしょう、問答第一と皆からいわれるようになったのであります。

 前にも言いましたように、頭の鋭い人は、ともすると虚無主義、ニヒリズムにおち入りやすいのですが、その誤りをひるがえしたために、却って頭の鋭さが生かされ、問答第一の弟子として、人びとから尊敬を受け、お釈迦さまからも「我が声聞弟子中、倶■羅比丘は明解聡利第一である」と言われるようになったのであります。


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