阿弥陀経に学ぶ 第11回

  ただ聞くよりほかなき教え
    <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


摩訶迦葉・摩訶迦旃延

◇摩訶迦葉(続)
 摩訶迦葉につきましては、一応お話を終わりましたが、大切な言い伝えをつけ加えておきましょう。迦葉はお釈迦さまより年長でありましたが、迦葉より先立ってお釈迦さまは、クシナガラで涅槃に入られました。御遺体はしばらく荘重にお祀りして、七日目に荼毘(火葬)に付すというしきたりになっておりました。

 その時、遠方にいて釈尊の入滅を聞いた迦葉は、とり急ぎクシナガラへ駆けつけたのですが、何しろ老齢でありましたため、道がはかどりません。明日はクシナガラに着けるという所まで到着したのが、はや七日目でありました。夕方になって彼は、クシナガラからやって来たという一人の婆羅門に会いましたが、その婆羅門はこう申しました。

 「今日はクシナガラで、いよいよお釈迦さまを荼毘に付するということで、仏弟子がたは忙しく立ち働いておられましたが、今ごろはもう火葬も済んだでしょう」これを聞いた迦葉は本当に泣きくずれました。大切な世尊の最後のお姿を拝むことができない。何という情けないことであろうか、と非常な悲しみにしずんでしまったのであります。

 一方、その日のクシナガラでは、今日は七日目ということで、釈尊を荼毘に付す準備もととのい、いよいよ仏弟子が、積んだ薪に火を点けたのでありますが、いくら火を点けようとしても、ついに燃え上がりませんでした。これは天の神々が、迦葉が帰ってくるまでというので、火の燃えるのをとどめておったのだといわれております。一日遅れて八日目、迦葉はクシナガラに着きましたが、まだ火葬は終わっていませんでした。そこで迦葉が自ら火をつけますと、一斉に勢いよく燃え上がったといわれています。お釈迦さまが待っておられたのでしょうか。念願を果たした迦葉も、さぞ嬉しかったことでしょう。

 釈尊亡きあと、教団の混乱を恐れた摩訶迦葉は、直ちに経典の編纂を思い立ち、500人の主だった弟子を王舎城に集めて、第一回の経典編纂(第一結集)を成しとげたといわれております。釈尊入滅後から、迦葉自らが入滅するまで一生涯、釈尊の残された教団を束ねて、混乱のないようにお弟子たちが仏道を励むよう、一生懸命に力を尽くされたのが摩訶迦葉であります。

◇摩訶迦旃延
 摩詞迦葉に続いて摩訶迦旃延という方がおられます。この人の原名はマハーカッチャヤナですが、それを中国の言葉で、摩訶迦旃延とあらわされているのであります。またこの人は西インドのウッジェーニー国の大臣の子、あるいは国師の子供であったとされていますが、お釈迦さまの教えを自分も聞きたいし、国中の人々にも聞かせたいと志をおこされた王さまが、この迦旃延に命じて、釈尊をご招待するために派遣されたのであります。

 そこで彼は七人の従者を供にやって参りましたが、釈尊のお姿と説法に心惹かれ、「この仏法こそ私のために非常に大事なものなのだ、ひとのことなど考えてはおれない」と思い込んでしまいました。そこで他の七人には、必ずお釈迦さまをお連れして国へ帰るから、一足先に国へ帰ってくれと言いふくめ、七人を帰してしまい、自分は王命など忘れて出家してしまったのでありますが、素質のすぐれているところへ真剣さも手伝って、彼の仏道は著しく磨かれ、お弟子の中でも、論議第一と呼ばれるようになりました。

 彼は王さまの命令のことについて、お釈迦さまには一言も申し上げなかったようでありますが、しばらくたって、どこからお聞きになったのか、この事情をお釈迦さまが知られるようになりまして、摩訶迦旃延に対して、「おまえの志はよくわかる。しかし大切な王命は粗末にしてはならぬ。とにかくこの場は一度国に帰りなさい。私も機会ができたら、あなたの国へ行きましょう。このことを王さまに復命して欲しい」と申されたのであります。

 釈尊のお言葉でもあり、また自分自身もしばらくの間にすっかり仏道が身についていましたので、お言葉にしたがって彼は素直にウッジェーニーの国に帰っていきました。しかしその後しばらくすると、その国の都にはオレンジ色が氾濫したといわれております。オレンジ色は仏教僧の衣の色でありますが、それが氾濫したということは、たくさんの出家者ができたということでしょうが、お釈迦さまがお出でにならない地方に仏教が広まっていったということには、迦旃延のような方の、熱心な努力があったことが偲ばれてなりません。


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