ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
摩訶迦葉
大切なお弟子、舎利弗、目蓮を終わりまして、今度は摩訶迦葉についてお話しましょう。原名はマハーカッサバですが、この人は王舎城にほど遠からぬところに住んでいたニグローダ・カルパと呼ぶ大富豪の子として生まれましたが、ピッパラ樹(後に菩提樹と呼ばれます)の下で生まれられたので、ピッパラヤナと名づけられました。摩訶迦葉(マハーカッサバ)はお釈迦さまのお弟子になってからの名であります。
この人は物事をよくわきまえておられ、頭もよく感覚も鋭く、その上、心も非常に純粋で、迷いの世間を厭う心深く、欲望の不浄であることを感じ、しきりに涅槃を願っていられたようです。従って出家の志が非常に強かったのですが、たった一人の男の子だったので両親はどうしても出家を許しませんし、ご自分も両親の欺きを見るにしのびず、両親の願いでやむなく結婚し家庭生活に入られました。
年月が過ぎ去って何年かの後に、両親は亡くなりました。もはや出家することによって欺く人もいないということから、それを機会に妻と相談のうえ、出家いたしました。そして諸方を訪ね歩き、ついにお釈迦さまと出会い、お弟子となったのであります。摩訶迦葉の妻も非常に純粋な女性で、自分も出家したいという願いを抱いていたといわれています。だから釈尊の教団に比丘尼(婦人の出家)が加えられたときに出家して、かねてからの志を果たしました。夫婦揃ってお釈迦さまのお弟子となった一例であります。
前に申しましたような事情があって、弟子入りの遅れた摩訶迦葉は、入門した時はすでに相当な年輩で、従ってお釈迦さまより年長でありましたし、また非常に高潔で、求道一筋という純粋な方でありましたので、お釈迦さまも尊敬しておられ、弟子というよりも、客分というようなお気持で接しておられたようであります。
摩訶迦葉は釈尊の多くのお弟子の中で、頭陀(dhuda)第一と呼ばれておりました。頭陀というのは最低の生活に満足するという修行でありまして、粗末な衣を着、粗末な食事をして、粗末なところに住む、それ以上何も求めないという生活であります。だから彼は釈尊から譲られた衣を一生涯着て通しました。この衣はお釈迦さまの弟子になった当初、摩訶迦葉は立派な衣を着ておられましたが、お釈迦さまの粗末な衣を見て、取り替えてさしあげたのでありますが、その時以来、お釈迦さまから頂いた衣を死ぬまで手放すことはありませんでした。また裕福な家からは托鉢をせず、貧しい家から差し出す食事を喜んで受け粗末な食べものだけで生活しておられました。
また彼は静かに一人で修行することを好み、木の下で端座したり、あるいは路地や墓地で寝たり、そういうことをしながら、あちらこちらを修行して歩いておられました。こんな話もあります。
あるとき、久方ぶりにお釈迦さまのもとに帰って来られましたが、その時にお釈迦さまのお側にいたのは、新しく弟子入りした者ばかりでした。それで摩訶迦葉のことをよく知らなかったようで、迦葉の入って来た姿を見た弟子たちは、何ともひどいその格好に驚いて、どこの物乞いかと、さげすみの眼でながめておりました。その時世尊は、目ざとく迦葉の姿をみとめられて、「迦葉よ、よく来ました。さあどうぞこちらへ」と自ら半座を譲って、そこへ招かれました。
弟子たちの驚いたことはいうまでもありませんが、迦葉は恐縮して「世尊、私は末座の弟子であります。とうていそのような場所に座ることはできません」と固く辞退しています。釈尊のお心はどうあろうと、彼はあくまでも弟子であるという帰依の心は変わりませんでした。
にもかかわらず世尊の仰せに従わなかったことが三つあったといわれています。一つは布施を受けて新しい軽い衣にかえなさいといわれたことでありました。しかしお釈迦さまから譲られた衣を、破れては繕って大切にしている迦葉には、この仰せを聞くことは出来ず、つぎはぎで重くなった衣を一生引きずるようにして着ていられたといわれています。
二つは、時には長者(金持ち)の家にも招待を受けて、たまには身体に力のつくような食物の供養も受けなさい、これは迦葉の老体を案じられたからでしょうが、それも聞きませんでした。
三つは、あなたも老齢だからあまり外にばかり出歩かず、ここにとどまるようにしなさい、このお言葉にも求道一筋の迦葉は甘えることはできませんでした。
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