ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
長老舎利弗・摩訶目建連
舎利弗は智慧第一と呼ばれましたが、目連は神通第一と評判されていました。神通というのは、普通の人にはない強い力のことですが、目連の場合は常人ではとてもできないことをやってのけたというとがあって、その面から言われたのでしょう。一説にはお釈迦さまの道行きを妨げようとしたナンダ、ウバナンダという名の二龍王を征服したからだ、とも言われております。
この伝説は彼の勇気や力をあらわしたものとして、素直にそのまま受けとっておいてよいと思いますが、目連は亡くなる前に、インドの東の辺境の地で、異民族の教化につくして力があったといかれています。その当時、東インドにはチベツト・ビルマ族というのが住んでいまして、ナーガと呼ばれていました。ナーガというのは龍のことでもあり、ナーガ族は龍族ということになりますから、別のナンダ、ウバナンダの二龍王を征服したということは、このナーガ族を教化して、大いに効果をあげたというように受けとってもよいと思います。しかしまた反面、そのことによって異民族の反感をかい、ついにそれらの人々から襲撃を受け、そのために亡くなったようであります。
前にも申しましたが、舎利弗は智慧深く、直観力も鋭く、お釈迦さまが時々要点だけをお説きになることもありましたが、それを舎利弗は他のお弟子がたに詳しく説きあかしたこともたびたびあったといわれています。またお釈迦さまの実子、羅喉羅のお世話や指導もしたようです。この阿弥陀経は先にも言いましたが祇園精舎でお説きになったものですが、祇園精舎ができる時に、舎利弗が設計し、また建築の指し図もしたといわれております。
このように舎利弗は、目蓮と並んで教団の保持、教法の確保に非常な力をつくし、お釈迦さまの二大弟子とさえいわれるほどでありました。提婆達多がお釈迦さまのもとを離れた時に、提婆の巧みな口ぐるまにのせられて、提婆について教団を離れていった多くの弟子たちを、連れもどしたのもこの二人であっだといわれています。
舎利弗は智慧にすぐれた人でありましたが、それに対して目連は非常に意志の強い行動派であったようです。この二人が何時でも仲よく力を合わせましたから、大きな仕事が出来たのだと思います。舎利弗が明晰な頭で、よく人々の迷い心をやぶって、明るい智慧を与えることに力をつくされたのに対して、目連はその智慧を生活実践の上にはたらかせるよう、指導されたと思われます。
源信僧都の『往生要集』の最初に「お念仏の道は濁った世、末の世の目となり足となってくださる」というお言葉があります。目足ということを詳しくいうと、智目・行足ということになります。智目は智慧によって物事を間違えずに、はっきりと見きわわることですが、足がなければ歩けません。行足はしっかりと歩む実行力ですが、目がなければ間違った方向に進んでしまうでしょう。
信仰生活にはこの二つが大切なのですが、この二つ、智目を与えたのが舎利弗で、行足を与えたのが目蓮であったとすると、二人はいよいよ教団にとって大切な仕事を引き受けていたということになりましょう。
私たちも、このお二人に逢いたいものですが、残念ながら今ではそのよすがもありません。しかし、幸いなことにわが浄土真宗には、私たちに目足を与えてくださる法がそなわっていることを、親鸞聖人は見つけておられます。
それは教行信証(聖人が真宗を開かれた一番大切な御聖教)の一番最初に、本願は難度海(わたることが難しい海)をわたる大きな船であり、光明は心の暗がりを破る智慧の太陽であるといわれています。この人生は難度海、わたり難い海、本願はそれをわたる船、船は海をわたる足であります。それに対して智慧は真実を見つける目、つまり本願は私たちの足になってくださること、光明は私たちの目になってくださるということであります。
それはそれとしておいて、舎利弗も目蓮も年令はお釈迦さまより上であったといわれております。そういうこともあってか、お釈迦さまより半年ばかり前に亡くなったのでありましょうが、目連は先に申しましたが異境の地で襲われたらしく、また舎利弗は故郷のナーラカ村で弟のツアンダに見とられて静かに息を引きとられました。
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