ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
長老舎利弗・摩訶目建連
さて、この『阿弥陀経』では「舎利弗・目連……」と、教団にとって大切な人から並べてありますが、最初の舎利弗には「長老」という字がついています。長老というのは、徳の高い年功者ということであります。この言葉が舎利弗の上にだけついていて、長老舎利弗とありますから、舎利弗だけが長老だとみえるのですが、実はそうではなくて、あとの方々もそれぞれみな、その人にしかない徳をそなえておられます。ここに出ててられる16人の方すべてに長老の意味があり、最初に代表的に一言だけ出してあるのだといわれています。
さて、まず舎利弗からでありますが、当時マガダ国という大きな国の都の近くに、ナーラカ村というのがありました。そこに婆羅門という高い身分で学者でもあったマータラという人が村を支配しでいました。ところがある時、同じ婆羅門の若い学者でティサという人が、議論を求めて村にやってきました。二人の間で議論が行われたのですが、どうしたことかマ一タラが若いティサに破れ、村をティサに譲って追われるようなことになってしまったのです。ティサは心温かい人で、譲り受けを辞退し、マータラがそのまま居れるように骨を折っておさめました。
このことがあって、仲立ちする人があり、ティサはマータラの娘サーリと結ばれて夫婦となり、この二人の間に生まれたのが舎利弗(サーリプッタ、サーリの子という意味)であります。マータラには、兄のクチラとサーリの二人の子供があって、妹サーリの智慧は兄に勝るという評判でありました。したがってこのサーリを母とし、祖父マータラとの議論に勝ったティサを父にもった舎利弗は、まことに類いまれな智慧の持ち主であり、幼くして神童のほまれ高く、のちに仏弟子の中で智慧第一と呼ばれています。
次の摩訶目建連(マハー・モッガラーナ、略して目連と呼ばれています)は隣り村のコーリタ村の人であり、父は婆羅門で村の有力者であったといわれますが、名は知られていません。母がモッガリーでありますので、モッガリーの子(モッガラーナ)と呼ばれたのであります。そこで舎利弗と目蓮は、隣り村同志で年齢もほぼ同じであり、すぐれた人物同志でありましたから、若い時から意気投合して堅く結ばれたようであります。あるとき近所の村にお祭りがありまして、二人そろって仲よく祭り見物に出かけたのでありますが、賑やかな催しに集まった人々が、浮かれきって騒いでいるようすを見て、二人とも非常に空しさを感じ、話し合ってついに出家いたしました。最初は、当時盛んであった新興宗教の一派で、二250人の弟子をかかえていたサンジャヤという師匠のもとに弟子入りをして修行にはげみ出したのであります。
何年かたったのでしょうか、お釈迦さまが王舎城(マガダ国の都)にこられて、最初の僧院(これは頻婆裟羅王が寄附された)竹林精舎にとどまられたとき、お弟子のアッサジ(阿説示)が托鉢して歩いていられるのに舎利弗は出会いました。この人は前にも申しましたサルナート(日本では鹿野苑と呼んでいます)で、初めてお釈迦さまのお弟子になった五人の中の一人であります。この人の托鉢の姿の、無心で、しかも犯しがたい崇高なようすと、透きとおるような眼に心うたれて、「あなたは誰方のお弟子でありますか」とたずねました。それに対してアッサジは「私は世尊釈迦牟尼仏の弟子であります」と答えました。
世尊というのは世にも尊い方ということですが、世の中で一番偉い方という意味ではありません。世の中というのはどのように立派に見えていても、結局は迷いの世界ですから、最後には全部くずれていきます。それを見越し自らも世を超え、人々をも超えさせる方ということです。牟尼というのは寂黙、、迷いごとから完全にはなれられたということであります。
この言葉によって舎利弗は、アッサジの後を追い、お釈迦さまにお目にかかって、その教えを聞き、ここで彼の心の目は開かれました。このことを友の目連に語りましたところ、目蓮も非常に感動して、「それでは私もお釈加さまのところへ行こう」と、ついに二人はお釈迦さまのお弟子となったのであります。ところがサンジャヤの弟子250人のほとんどは、この二人をたよりにし、模範にして修行していましたから、舎利弗、目連がお釈迦さまの弟子になったと聞いて、ことごとく二人のあとにしたがってお釈迦さまの弟子となりました。
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