ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
説法に集まった人びとのことについては、詳しく示されておりますが、この「衆に知識せられたり」とあります衆は、世間の一般大衆ということで、それら一般から知識せられている人びとからよく知られており、その徳があおがれ、したわれているということであります。知というのは、内にそなわった徳が敬われること、識というのは、外にあらわれた姿がしたわれるということになっていますが、また一説には、知識ということを善知識と受けとって、お釈迦さまから聞かれた法を、自ら説いて人を導かれたと、このようにもいわれており、そういう面もありました。さて次に、「長老舎利弗・摩訶目建連。摩訶迦葉・摩詞迦栴延…………」と、舎利弗以下、十六人のお弟子がたの名前が連ねられていますが、『無量寿経』では数が増えて三十一人になっており、並べ方や呼び方が違っています。
数が多いのは、『無量寿経』が何としても本願の念仏を説かれた中心のお経ですから、よくととのえられているのでしょう。並べ方については一つのお経を比べてみますと、『無量寿経』の方は、お釈迦さまに御縁を得てお弟子になった順に並べられているようであります。例えば、最初に出てこられる五人の方は、お釈迦さまに最初に御縁を得た方々で、『阿弥陀経』には出ていません。ここで、お釈迦さまに弟子入りされた最初の因縁を明らかにしておきましょう。
お釈迦さまがさとりを開かれた直後、サルナート(鹿野苑)という所で、初めて教えをお説きになりましたのを、私たちは初伝法輪(初めて法輪を転ずる)と呼んでいます。法輪は教えのこと、転ずるは開くということで教えが開かれること、初めて説法が行われたということです。この時の説法の相手は、かつてお釈迦さまが修行時代に、ウルベーラという林で多くの修行者と共に、苦行にはげんでいられたころ、一緒に修行していた仲間の五人でした。ところがお釈迦さまが、苦行はさとりに至る道ではないと見きわめをつけられて、苦行の林を出て、尼連禅河で沐浴し、村の娘から乳粥の供養を受けてめしあがったのを見た時に、この人々は、「太子は堕落した」として、お釈迦さまを見限り離れてしまったのであります。
しかしお釈迦さまは、さとられた後、すぐにこの五人を思い起こされて、この深い緑ある五人に、何とか法を伝えたいと思われ、消息を求めてベナレスの方に向かわれました。ベナレスはガンジス河の中流にある宗教都市で、昔から栄えていて、インド各地から宗教者が集まって来ていた処であります。このベナレスへ来られてお釈迦さまは、その近郊のサルナートに五人がいるという消息を得られて、直ちに向かわれました。
ベナレスからサールナートへは10㎞足らず、車で15分ほどですが、途中には小さな山のようなものを礎き上げて、今ではその上に迎仏塔と呼ばれている記念塔のようなものが建てられています。ここでお釈迦さまは、五人とお逢いになったということです。
伝えられるところによりますと、五人はお釈迦さまの姿を見つけて、「堕落の修行者がきた。あのような者には知ら顔をし、言葉もかけるな」としめしあわせていました。しかしお釈迦さまが近づかれた時には、誰からともなく立ち上がって席をもうけ、お迎えしたといわれています。それからやがてサルナートで説法が始まり、五人はこぞって最初のお弟子となったのであります。
反抗しながら遂には帰依したのが、五人の弟子入りの事情ですが、もとづくところは、この五人の求道心でありましょう。最初にお釈迦さまを堕落者と思い込んで反抗したのも、都合のよしあしでなく、彼らなりの求道心からでありました。
それと、もう一つ大事なのは、お釈迦さまからいえば、その御縁を無駄にさせまいという、彼らに対する深い慈悲の心でありましょう。このように深い因縁のもよおしによって、多くのお弟子がたは生まれてこられたのであります。次回からお話いたします舎利弗以下、16人のお弟子がたや、すべて深い因縁によってお弟子になられた方でありますが、順序は教団にとって大切な人から始まっています。
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