ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
皆是大阿羅漢。衆所知識。
みなこれ大阿羅漢なり。衆に知識せられたり。
数多くのお弟子がた、それを大阿羅漢といってあります。これは出家のお弟子が四つの位に分かれていて、その中の最高の位であります。しかしここには大事な問題がありますので、そのことをこの際はっきりさせておきましよょう。
仏教はいうまでもなくお釈迦さまから始まりましたが、時がたつにつれて段々広まり、また深まってまいりました。そこで仏教が大きく二つに分かれ、従来の仏教を小乗仏教、新しく発展した仏教を大乗仏教、と区別するようになりました。
この二つは一体どう違うのか、ということを簡単に説明しますと、仏教は初めのうちは比丘(僧侶)のお弟子が中心であり、この方がたを声聞と呼ばれていました。このお弟子がたは、家を捨て(出家)妻子を捨て、職業も棄てて、ただひたすら、お釈迦さまの教えに従って、わが身の持っている迷い心を破って、すっきりとしたさとりを開くことが理想でありました。そのためにあまり世間のことも、他人のことも考えず、自分の助かることに力が入るのは、やむを得なかったようであります。しかしお釈迦さまの教えを求めて集まってくる人々は僧侶だけではありません。在家の人々---生活のために汗を流し、親の面倒を見、妻子を養い、人間と人間とのかかわり合いの中で社会生活を営みながら、しかも道を求めずにはおれぬという熱心な多くの大衆がありました。しかもこの人々によって教団は支えられていたのであります。
ここに仏教の一部は大きく転回し始めました。つまりたださとりということだけでなく、生活を大切にする仏教、言ってみればさとりの仏教から生活の智慧を求める仏教という方向に向かって大乗仏教が芽を出し、華開いてきたのであります。こういう点から大乗仏教が興るときに、従来の仏教に対して、生活を無視している、狭い、利己主義的仏教だという批判がおこり、それを踏み台にして大乗仏教は興隆したようで、その時に小乗仏教の求道者をさして呼ぶ声聞という言葉が、批判的な呼び名、けなされるような呼び方になったのであります。
大乗の仏教の求道者を菩薩と呼びます。これは世の中や他人を引き受けて、求道に立ち上がった人という意味で、立派な、というほめ言葉にもなります。しかし声聞という言葉も本来は別に悪い意味でもありません。文字の通りに読むと、声を聞くという意味であります。この場合の声は、お釈迦さまの声、仏の声です。そのように教えを聞いてさとるということですから、大事な意味もあるのですが、大乗からは批判的に取り扱われていますから、声聞がたの出てこないお経もあるのであります。
しかしこの『阿弥陀経』では、後のところで「阿弥陀仏には無量無辺(数えきれぬほど)の声聞弟子がある」と説かれています。またこのお経のもとである『無量寿経』には、阿弥陀仏の願いが四十八通りの形であらわされていますが、その第14番目に「わが国(浄土)には数かぎりない声聞たちがいるようにしたい」と願っておられます。
このことはよくよく考えねばなりません。声聞を批判し、けなすことを踏み台にして、大乗仏教は興ったものですから一般大乗仏教で声聞は、個人的、ひとりよがり、弱い求道者というような取り扱いを受けていたのですが、真の大乗、本当の在家仏教を具体的に実現しようとする念仏の大乗仏教において、聞くということの大事な意味が見直されて、捨てられた声聞が復活してきたのだと思います。
そこでこの願い(第14願)の前に阿弥陀仏は、「われ人類の光とならん、われ人類のいのちとならん」というお心を、第12番目と第13番目とつづいて、光明無量、寿命無量の願いをあらわされています。それがすむとすぐ第14番目に、先ほど申しました声聞がたくさんおってほしいと、「聞」ということが出、その後、13カ所にわたって「聞」という字が並んでいます。つまり聞いてほしいというお心か強くあらわされているわけです。これは阿弥陀仏の光明や寿命に対して、私たちがどのようにしてかかわりを持つか、仏の光明や寿命をいただく道は他にない、たった一つ「聞」というところにあるということを示されたのでありましょう。
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