阿弥陀経に学ぶ 第5回

  ただ聞くよりほかなき教え
    <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


如是我聞。一時仏、在舎衛国 祇樹給孤独園、輿大比丘衆千二百五十人倶。皆是大阿羅漢衆所知識。

 かくの如き我聞きたまえき。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園にましまして、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。みなこれ大阿羅漢なり。衆に知識せられたり。

 『阿弥陀経』はお釈迦さまが、祇園精舎においでになった時、主人公はもちろん、お釈迦さま。処は祇園精舎。時と主人公と処については前回お話しました。説法という出来事でありますから、必ずそこには聞いている人がおります。聴衆というのでしょうか。これは後でくわしくお話しますが、1250人のお弟子と多数の菩薩方、それと天界に住んでいる神々が集まっておりますし、それに加えて一般の大衆、誠に大勢の聴衆が集まっております。これで一応、説法の形式はそろっています。しかし折角お釈迦さまが説法なさいましても、聴いている人が脇見をしたり、居ねむりをしたり、他のことを考えたりして、本当に聞いておらなければ、説法になりません。そこで聞ということが出てきて、「我聞く」という言い方であらわされているのでありますが、この「我」という字を今の私にしっかりと受けとめて、私も聞かして頂くのだと受取らねばならぬと思います。

 しかし、いくら聞いておりましても、それが素直に受取れずに、「そうではない」とか、「何を言っているのだ」という心であっては、これも説法になりません。「なるほどその通りだ」と心からうなずくとてろに、本当の説法が完成するのでありますから、仏の言葉にうなずく心、信ということが大事なことになります。それで一番最初に「如是」という言葉で信心があらわされているのであります。

 とこでお経の順序に従って申しますと信、ついで聞・時・主処・衆と、この六つが順序よくそろっていますので、これを昔から「六成就」と呼ばれています。聖人は『教行信証』で、「仏の世界に入るには信心より他にはない。だからお経の初めに〝如是″という言葉で信心をあらわしてある。如是という言葉の意味は、よく信ずる姿をあらわしたものである」といわれました。

 お弟子の数が1250人とありますが、これはどういう数え方になっているのかと申しますと、昔からこのことについて次のように言われております。お釈迦さまが仏になられてから間もないころ、さとりを開かれた場所にほど近いところに、三人兄弟の宗教家がおりました。みなそれぞれ不思議な力をそなえて人々の心を集め、多くの弟子を持ち、有名でありましたが、縁あっ.お釈迦さまにお逢いし、その威力と徳力に敬服し、主人共そろって帰依しお弟子になりました。そこでこの三人に随っていたそれぞれの弟子方が、全部こぞってお釈迦さまのお弟子になったということで、これが千人を数えたといわれています。あとの250人は舎利弟や目蓮がつれてきたり、お釈迦さまの縁につながる人びと、あるいは単独で弟子入りした人であります。そういう方がたを全部合わせて1250人になるといわれていす。

 続いて「みなこれ大阿羅漢なり。衆に知識せらる」とあらわされています。

 仏のお弟子は大きく二つに分けられていまして、仏の教えを聞いてさとるという道を歩まれる「声聞」と呼ばれる方がたと、仏の心をわが身に受けとめて、自分も仏になり、また他の人々をも仏にしようという願いを、生活を通してきずきあげていく道を歩まれる「菩薩」と呼ばれる方がたとがあります。今、ここで阿羅漢というのは、初めの声聞と呼ばれる方がたの中で、最高のさとりを開いている方のことであります。ところがこの言葉も文字も、インド語をそのまま写したものですから分かりにくく、その内容についてもいろいろに言われていますが、一般によく用いられているのは次の三つの内容であります。

 まず殺賊、ついで応供、三番目に不生、この三つであります。

 そこでこの三つの意味を大ざっぱに説明しますと、殺賊の賊は煩悩のことで、煩悩を殺したということ。次の応供というのは供は供養、供養を受ける資格ができたということ。不生は二度と迷いの姿で生まれてこないということです。これらは私たらの生活に大事な意味がありますので、次にくわしくお話しましょう。


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