阿弥陀経に学ぶ 第4回

  ただ聞くよりほかなき教え
    <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


如是我聞 一時仏、在舎衝国 祇樹給孤独園、興大比丘衆 千二百五十人供。

 かくの如き、我聞きたまえき。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園にましまして、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。

 さて本文に入りますが、まず序分と呼ばれていをところであります。前にも申しましたように、この『阿弥陀経』には、『大無量寿経』や『観無量寿経』とちがって、特別の序分はありません。通序と言いまして一一般的な序文、つまりどのお経にも必ず付いている序文、一般に共通する序文だけでありますが、この通序には必ず六つのことが揃っているのが原則でありまして、巻頭に掲げましたのはこれであります。

 六つのことが揃っているので六成就と呼んでいますが、これが揃わないとお経にならないのであります。というのは、お経というものはお釈迦さまの説法の記録でありますが、世の中にいろいろの出来事があるように、説法ということもーつの出来事であります。むちろん、特別の出来事ではありますが、出来事には違いありませんから、そこには必ず時と場所がなければなりませんし、人間世界の出来事には人が関係してきます。おとぎ話のようなものでも「昔むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが」と出てきます。このように時と処と人という条件が揃わなければならないのであります。

 このお経では時をおさえて「一時」、主人公を「仏(お釈迦さま)」、処を示して「舎衛国の祇樹給孤独園」とあらわしてあります。一時というと、ある時ということで曖昧なように聞こえますが、そうではありません。お釈迦さまが舎衛国の祇樹給孤独園においでになった時ということです。
 舎衛国というのはその当時のインドではコーサラ国といって、大きな国でありました。その都に、国一番といわれた大金持ちのスダッタという人があり、慈悲深く、身寄りのない人を何かと面倒をみ、孤独の人にいろいろ与えるというので給孤独長者と親しまれていました。この人がある時、南隣りにあたるこれも大きな国、マガダ国にある一番賑やかな街、ベナレスに商用で参りましたが、その機会に義兄にあたる大商人の家に立ち寄りました。そこで始めてお釈迦さまのお話を聞き、非常に感動し、何とか自分の国にお招きし、人々と一緒にお釈迦さまの教えに逢いたいという願いを起こしました。

 帰国して以来、お釈迦さまやたくさんのお弟子をお招きする場所をどこへ造ろうかと心をくだきましたが、国の都、舎衛城に隣接している、樹のたくさん植わっている広い公園のような場所、自分の邸も隣りになるという、まことにあつらえ向きの場所がありました。

 ところがこの土地はジェーダ(祇陀)という皇太子の所有になっていてスダッタは譲ってもらいたいと何度も熱心に願うのですが、なかなか手放してもらえませんでした。伝説では、太子はスダッタに諦めさせるよう、土地一杯に金貨を敷けば、それで譲ろうと難題をもちかけたといわれています。

 ところがまさかと思っていた太子の前で、次から次へと車で金貨を運びこんだスダッタは、広大な土地に金貨を敷き始めました。驚いたのは太子ですが心動かされました。それほどまでにしてお迎えしたい方は、よほど優れた大切な方であるに違いない。「よろしい、土地はお売りしましょう。樹は私からその方に差し上げよう」とこういうことになりました。

 暑いインドでは日蔭をつくる樹は大切なもの、出家がたの修行の場所になります。お釈迦さまも樹(無憂樹)の下でお生まれになり、樹(菩提樹)の下でさとりを開かれ、樹(沙羅双樹)の下で亡てなりました。

 このお経で祇樹給孤独園というのはこのようにしてでき上がったもので、祇は祇陀太子、その人に贈られた樹、それで祇樹、給孤独はスダッタの別名 その人が寄進した園、それで給孤独園、一番上の字と、下の字をとって祇園、そこにできた仏道修行の場所ということで精舎、この祇園精舎の名が中国や我が国に伝わっていますが、釈尊ご在世の時にできた精舎の中では、一番立派なものであったと言えましょう。お釈迦さまがここで雨の季節を22年間すごされたといわれる大事な場所、ここで『阿弥陀経』は説かれたのであります。


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