ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
仏説阿弥陀経 姚秦の三蔵法師鳩摩羅什、詔を奉りて訳す
このお経の題目は『仏説阿弥陀経』であるが、まずそれを掲げ、次いでこのお経を翻訳した人の名を挙げてあります。ご承知のようにお経はインドで生まれました。従ってインド語ですが、これが中国に渡ってきた時に、中国の言葉に言いかえなければ中国の人には読めませんし、仏教も伝わりません。そこで、インド語のお経を中国の言葉に言いかえる仕事は非常に大切であり、また困難でもありましたから、翻訳者を大切にしていて、三蔵法師と尊敬して呼んでいます。三蔵の「三とはお経が大きく三種類に分かれていること。「蔵」はお経のことで、結局、お経の翻訳者という意味であり、法師は偉いお坊さんということであります。
姚秦というのは、その当時、長安に都のあった国の名前であり、鳩摩羅什は法師の名前でありまして、変わった名でありますが、中国の人ではありません。クマラジーバというのが原名ですが、それに漢字をあてはめたので、難しい字になっています。この人の生まれは亀茲国(タクラマカン)といって、今、NHKのテレビや書物で盛んに紹介されて、日本人の注意をひいている西域(インドと中国との境)にあった国ですが、父は北インドのある国の大臣の家柄に生まれ、この亀茲国に渡ってきた人。国王に見込まれて、その妹をめとって妻としたのですが、その間に生まれたのが鳩摩羅什三蔵であります。生まれは西暦1339年ですから今から1643年前になります。法師は生まれつき聡明、6才で出家されましたが、すぐにお経を覚えられたといわれています。
それ以後、年毎に大成していかれました。その後永らく亀茲国にあって西域仏経のために大いに尽くされました。西域で仏教が盛んになれば自然にそれが中国に伝わり、中国仏教の発展に大きい役割を果たしたことに なりますが、次第にその名声は中国に伝わったようです。
その頃から、山の中であり、砂漠も多い辺境の地であるこの国の勢いは次第に傾いていたが、折も折、中国に勢力を盛りあげていた姚秦国から鳩摩羅什をよこせという強い要請が持ちこまれました。強大国と弱小国、とうてい抗しきれず、やむなく羅什は姚秦国の都、長安に移ることになったが、時に西暦401年、齢65才であったといいます。
長安にあって羅什の仕事は、専らお経の翻訳でありました。69才で入滅されましたから、長安滞在は僅か4年、この間、懸命に働かれたに違いなく、この『阿弥陀経』の他に、有名なお経は『法華経』、『維摩経』、『大智度論』、『十住毘婆沙論』(これは真宗で大切な論であります)、この他、お経が三部、論が四部、実に多くの聖典を翻訳しておられますが、僅か四年間にこのような大部の翻訳事業をやり遂げられたのは、とうてい、並の人間わざではないと考えられ、他にそう多くはおられない非凡な方だということが強く感じられます。
このほかにも数えきれないほどの三蔵(翻訳者)が出られて苦労されたのですが.中にはインド、西域から中国へ来られた人もあり、本来中国の人であったが特にインド語を勉強して、この仕事にたずさわった人も数多くありました。
その中でも特に、羅什から百年ほど経って菩提流支という方が北インドから来られました。お生まれも、亡くなった年もはっきりしませんが、私たちにとって大切な、天親菩薩の『浄土論』を中心に、三十九部の聖典を20年間にわたって翻訳されたことは確かであります。中でも大事なことは曇鸞大師がこの流支三蔵に会われて、厳しいお叱りを受けられ、それまでの心をひるがえしてお念仏に帰入されたということ。ご開山もこのことを大切に思われて、『正信偈』に「三蔵流支(菩提流支三蔵のこと)浄教を授けしかば、仙教を焚焼して楽邦(浄土)に帰したまいき」とのべておられます。
もう一人、玄奘三蔵ですが、時代は下がって唐の時代(602年生まれ)、命がけでインドに渡り、天親菩薩の教えを学んだ人ですが、そこから西遊記という物語が生まれ、孫悟空という名は子供にもよく知られ、この方も『阿弥陀経』を翻訳されました。とにかく、こういう方々のご苦労によって、今日、私たちはお経に会うことができるのです。この事は忘れてならぬことでありましょう。
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