阿弥陀経に学ぶ 第2回

  ただ聞くよりほかなき教え
  <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


 前回、この『阿弥陀経』は、お釈迦さまの遺言にもあたる大切なお経であると申しました。それに気づかれた親鸞聖人のお言葉を引いて、そのことをお話ししたのですが、その前に中国の善導大師もこのことをお気づきになっていたようでありますので、重ねて『阿弥陀経』が大切なお経であることを、善導大師のお言葉にもとづいて申してみたいと思います。

 善導大師は『観無量寿経』に力を入れられて、このお経を通して念仏の温い内容を私たちに教えて下さっているのですが、この『阿弥陀経』にも力を入れられて、このお経について『散事讃』という書物を二巻を残こして下さっています。

 それを見ると、「阿弥陀経の説法が今やまさに終わろうとしたところでお釈迦さまは、舎利弗(後で何度も出てきますが、多くのお弟子方を代表して『阿弥陀経』の説法を聴いた人です)に対してねんごろに、念仏しかないのだ、念仏を忘れるな、これを皆に伝えてくれと言いのこされた」といわれています。

 前回申しましたが、お経の一番終わりのところが流通分といって、大事なことを一言いのこされる場合はここですが、『阿弥陀経』のここを見ても、別に念仏のことは特別に出ていません。

 「仏、この経を説きおわりたもうに」といって、説法が終わった、皆が喜んだということだけしか見えません。

 そこで気のついたことは、お釈迦さまの説法が終わろうとした時と、善導が言われたのは、『阿弥陀経』が終わろうとした時というのではなくて、お釈迦さまはさとりを開かれて、涅槃に入られるまでの約45年間説法をつづけて来られましたが、その説法が終わろうとした時という意味、釈尊御一代の説法の終わりという意味で、『阿弥陀経』の流通分のことでなく、『阿弥陀経』の全体が、釈尊御一代の説法の全体の流通分という意味であります。

 説法の終わりに、その説法を聴聞するために集まったお弟子の中から代表的な人を選んで、その時の説法の内容の要点を押さえて「これだけは忘れるな、皆にしっかり伝えてほしい」と委嘱されることを、仏教の言葉では付属と呼んでいますが、善導大師は「お釈迦さまの説法がいまや終わろうとした時に、ねんごろに念仏を付属された」といわれるのは、お釈迦さま御一生の説法の終わりに、『阿弥陀経』によって、仏法の要は念仏であるということを言い残こされたということでありましょう。

 このお経を説かれる時に数多くの弟子や菩薩方が集まっておられますが、その中から特に舎利弗に呼びかけて、一貫して舎利弗に語りかけておられるような形になっています。舎利弗に対する呼びかけが、短いこのお経の中に二十六遍も連発されていて、懇々と言い聞かせようとされる釈尊のお心が感じられます。

 舎利弗は多くのお弟子の中で、智慧第一という評判の高かったことは有名であります。舎利弗のことについては後で詳しくお話しすることにしていますが、勝れた智慧の持ち主で、お釈迦さまがしばしば要点だけを説かれたものを、詳細に説きあかしたことも、たびたびあったといわれています。どんな人間でも確実に助かる道は、この念仏以外には無いのだということを、しっかりと心にうけどめて、それを間違いなくみんなに伝えてほしいと、そういうお心が、舎利弗を選んで『阿弥陀経』を説かれた釈尊の深いお心であったのではないかと思われます。

 そしてここにこそ、この『阿弥陀経』が、他の経典にはない深い意義をもっていることを感ずるのであります。しかし残念なことには、釈尊の強い期待にもかかわらず、舎利弗は釈尊に先立って、数カ月前に亡くなったといわれています。この知らせを聞かれた釈尊の落胆は眼に見えるようで、お察しすることができますが、しかし舎利弗は存命中に力をつくして釈尊の委嘱をはたすことに努力したに違いありませんし、また幸いにこの『阿弥陀経』の会座に阿難もおられたので、立派に後世にのこったことは、私たちにとって幸いなことでありました。何とか力をつくしてこのお経の大事なお心を明らかにしたいものだと思っております。


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