掃除、洗濯と仕事が終わると、雨が降る以外は毎日のように子供をベビーカーに乗せて散歩へ出かけます。
散歩の途中で色々な人に出会い、地域に子供が少ないこともあつて、会う人みんなが声をかけて下さいます。
「おはようございます」とか、「毎日お母さんも大変ね」とか、色々な人に接しながら散歩の毎日が続いていました。
ある時、顔見知りのおばあさんが子供に向って「あなたも大変ね、お母さんに付き合わされて」と声を掛けられました。
何か腑に落ちない言葉でしたが、その場は「そうですね」と一言いって別れました。
帰り道、どうしてもその言葉が気になり頭から離れずにいました。
子供のためにやっていると思っているけど・・・はたしてそれだけなのかと。
よくよく考えてみますと、「お母さんも大変ね」と言われることに満足を感じ、子供のためにやっていると思って散歩していた行為が、いつの間にか人によく見せたい、人からよく見られたいといった私を満足させるものになってしまっていました。
そのことが子供を利用しているものとなっていることに、「あなたも大変ね、お母さんに付き合わされて」という言葉をきっかけとして、私の姿があらわにされたように思います。
あらためて子供との関係を見てみますと、「子供のため」といいながら、自分の思い通りになる時は大事にできますが、自分の思い通りにならない時には子供を責め、「何もできない。私の時間が持てない」と、毎日の生活が子供によってふり回されているように、いつでも子供に責任をすりかえてしまいます。
「~してやっている」といいながら、いつでも自分の都合のいいようになることを相手に求め、子供に寄り掛かりながら暮らすことで、今生きていることが自分のこととして受け取れず、無責任な生き方になっていたように思います。
結局、自分で自分の責任を取ろうとしないことが、外の状況に振り回されて自分の生きることが全部人まかせになってしまっていたようです。
これでは、相手の出方しだいで右に傾いたり、左に傾いたりと、安心して立って生きる場所はどこにもありません。
不安定な所に立っているしかないのが私の姿だったのです。
自分の生きることでありながら人ごとにしてしまうほど空しいことはありません。
誰かのために今生きているわけでもなく、誰かのために何かをやっているわけでもない。自分のためであると、今やっていることが、自分のこととして引き受けられない限り、自らの歩みが始まらないような気がしています。
(つ る)
京都教区だよりH13,.11月号より
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