鳳凰や天女や蓮などのデザインとは一風変わっているこの場面は何を示しているのか? 幼い頃に先代住職(祖父)に聞いたのだが、詳しいことは忘れてしまった。よく見かけるのは、卓の飾りの彫刻、欄間、蛙股の彫刻などがある。
金剛寺、西乗寺 宗玄寺 法傳寺の欄間を紹介しての頁です。
郭巨
鳳凰や天女や蓮などのデザインとは一風変わっているこの場面は何を示しているのか? 幼い頃に先代住職(祖父)に聞いたのだが、詳しいことは忘れてしまった。よく見かけるのは、卓の飾りの彫刻、欄間、蛙股の彫刻などがある。
「子どもを捨てに行こうとしたが、諭されて思いとどまった」という「子捨て」の場面であるという断片だけが記憶にあった。この話の出展が何なのか、調べようもなく今日に至った。
「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」という言葉があるが、いわゆる「老僧」の域になって居られる方にも何度か訪ねてみたが、「わからない」「知らない」という答えが帰って来るのみだった。
つい先日、ふと思いついたのは、これを彫刻している彫師の方に尋ねたらわかるはずだと・・・。自分の彫っている物が何を根拠にしているのかはご存知のはずだと。仏具に大いに関係しているから、仏具店の方に調べてもらうことにした。
いやはや、さすが。即座に出展がわかった。唐の末期にはまとめられたという『二十四孝』からの出展という。儒教の考えに基づく24人の代表的な孝行の人物を取り上げた書物で、日本にも伝来して建築や彫刻などに描かれていくことになったという。『二十四孝』と言えば、あの『孟宗の竹の話』は知っていたが、こんな所が出展だったとは・・・。およそ60年ほど気になっていたことだが、喉に刺さった小骨が取れたような気持ちになった。
さて、題材になっている物語は、
郭巨という人は貧しくて、母と妻との3人家族であった。やがて子どもを授かり養育して行くのであるが、日々の母親(老親)の食事すら満足に用意出来ない。子どもはまた授かることは出来るだろうが、親は二度と授からない。この子を埋めて母親を養おうと決心し、妻は泣きながらも夫の決心に従うことにした。子どもを連れて行き、子どもを埋めるために鍬で地面を掘ると、地中から黄金の釜が出てきた。その釜には、『親孝行な郭巨にこの釜を天から与える。他人は盗んではいけない』と書かれていた。郭巨と妻は喜んで家に帰り、さらに母親に孝行を尽くしながら家族が共に幸せに暮らしたという。
日本仏教は、儒教の影響が大きいといわれるが、『無量寿経下巻』に出てくる譬喩とそっくりである。極楽浄土を描いた本堂の金ピカの欄間の1枠に『二十四孝 郭巨』が並んでいる。日本仏教が郭巨の話を取り込んだ思いは何なのかは、今の世と引き比べて、それぞれで考えてみることが大切ではなかろうか。
上の写真の一つは、宗玄寺にあった聖人卓の彫刻で、卓そのものは潰れてしまったが、この彫刻だけは保存していた。右に立つ人物は郭巨で、手には鍬を持っている。足元に描かれているUFOのようなものは地中から出てきた黄金の釜。左には、子どもを抱いた郭巨の妻が佇んでいる。
「杖をついた老人に、子捨てを止めるように諭されている場面」だとばかり思っていた。杖ではなくて、改めてよく見ると鍬であった。
郭巨の欄間は注意して見るとあちこちの真宗寺院によく見られる。しかし、他の場面は余程見て行かないと何の場面かよく判らない物がある。
因みに二十四孝の題材となっている人物は
陸績 田真兄弟 郯子 蔡順 閔子騫 黄香 呉猛 楊香
張孝兄弟 丁蘭 王裒 王祥 姜詩 孟宗 郭巨 董永
舜 漢文帝 山谷 庾黔婁 朱寿昌 曾参 唐夫人 老萊子
唐獅子牡丹
唐獅子牡丹と言えば、かつての「仁俠映画」を連想するが、これがまた真宗寺院の欄間の彫刻の題材として取り上げられている。
獅子は百獣の王として、怖い物はないとされているが、「獅子身中の虫」という言葉があって、獅子の体の中に棲む虫だけはどうしようもないのである。
その虫を退治してくれるのは、牡丹の花から滴り落ちる夜露に体をぬらすと、身中の虫を退治することが出来るから、獅子は毎夜牡丹の花の下で眠るのだという。
つまり、「あなたは帰る所がありますか?」という「帰依処」についてのお話を展開して行くための題材に用いられているのだという。昔も今も、ビジュアルに法話をして来たのだった。むかしの坊様はよく勉強していたのだなぁと思うのだった。
そのほか
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