広島・長崎 2005年版


私に出来る平和への一歩は、広島・長崎に思いを寄せることです。

広島の日に鐘を撞きに来た人たち

8月6日は世界で初めて実戦として広島に原爆が投下されました。9日には長崎に投下されたのです。
 それは今からちょうど59年前の出来事です。私が生まれてちょうど一年経った時のことです。勿論そんなことが起こったと言うことを知ったのは、ずっとずっと経てからの事でした。


 昨夜も遅い時間に、長崎での写真の事を放送していました。戦争は本当に恐ろしい事ですね。人間が狂気と化し、無差別に市民を殺傷していく戦争は、何時になったらこの地球から無くなるのでしょうか。
 今もこの時刻に、世界のどこかで、引き金が引かれているのです。 私は今年、6日の朝と、9日の昼、ちょうど広島や長崎に原爆が投下された時刻に、丹波の山奥から心を込めて梵鐘を撞きました。それは、原爆で犠牲になられた方々への追悼の気持ち以上に、「戦争をやめましょう」という願いを込めての梵音でありかたったからです。
 こんな田舎の寺であっても、梵鐘を撞いて、戦争への抗議と反省と追悼の意志を表示することだけは出来るのです。

 時ならぬ梵鐘の音に、村の人々はどんな反応をされたかは知る由もありません。
  何故いまの時刻に梵鐘が?
と思った方は少なかったかも知れません。

 戦争反対や原爆反対は、何も大勢で声を高めて行進したり集会に参加することだけではなくて、自分の心に知らしめていくことであれば、一人でも出来る事なのです。

 来年も、私が歩いて鐘楼へ行けるなら、今年と同じ思いで梵鐘を高らかに撞こうと思っています。小さな石の一粒ですが、一緒に撞いてくださる方が増えるかも知れません。そして、あちこちの寺から、「ぼ~ん」と、抗議と反省と追悼の音が響き遇えるようになりたいものです。

 坊守の出身は広島県江田島町。そこのお土産袋にこんな物が書いてありました。
 五省
 一、至誠に
もとるなかりしか
 一、言行に恥づるなかりしか
 一、気力に
くるなかりしか
 一、努力に
うらみなかりしか
 一、不精に
わたるなかりしか

 どうも戦前の海軍軍人のための言葉なのだろうが、だからといって、これはいけないものということはないと思うのです。
 一、本当の事を見誤っていないか
 一、言ってることとやっていることが違っていないか
 一、やろうという気力を失ってはいないか
 一,努力することから逃げてはいないか
 一、コツコツと続けることから逃げていないか

という事に解釈出来る。ホームページで「五省」を検索すると、この言葉を自分の努力の指針とされている方が多いが、指針ではなく基本ではないかとも思うのです。

 誇大な言行ではなくて、自分が進んで出来る小さな小さな一歩を、確実に実行したいと思うのです。

 来年の原爆の日には、一緒に梵鐘を撞きませんか?


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