蟪蛄、春秋を識らず。伊虫、あに朱陽の節を知らんや。(ケイ:虫へんに恵 コ:蛄)
「蟪蛄」というのは蝉のことです。蝉というものは夏になると地中から出てきて、わずかに一週間ほどの時間を成虫として生きていきます。
夏にしか出てこない蝉の成虫は、この世の中に春があり、秋があるという事を認識する事はないのです。
「伊虫」というのは、固有名詞ではなく、「この虫」という意味です。
ましてこの虫は、今が夏の真っ盛りであるということさえ知らずに鳴き続けているというのです。
この言葉は親鸞聖人の著作である『教行信証』の『信の巻』に引用されています。
蝉が自分の有り様がどのような状況に生きているのかを知らないのと同じように、私たち人間も、いつも自分が世界の中心であり、自分以外の者の言う言葉や行動を批判・非難し、自分こそが正しいと思い込んでいるのだということを教えているのです。
世の中には不平や不満ばかりを話題にして、それがさも当然のことであるように振る舞っている人もいます。何が不平の根源であるのか、何が不満の根源であるのか、自分の置かれた位置を一度もかえり見ようとしない事もあります。根源を絶つことが最良の解決なのでしょうが、実は、その不平・不満はその人の「独り想い」である場合もなきにしもあらずなのです。
「蟪蛄」という部分を「私」に置き換えてみると、何とも恥ずかしい私の姿が浮き彫りにされて来るのですね。
『行の巻』には曇鸞大師の『浄土論註』の引用がなされ、難行道(自分の力で覚りの境地に入ろうとする方法)の五つの障碍の一つとして、無顧の悪人、他の勝徳を破す。ということが出てきます。
「かえりみる」ということには二つの漢字があります。一つは「省みる」。もう一つは「顧みる」です。
「省みる」は私だけを顧みるのですが、「顧みる」は、他との関係において、過去・現在・未来の時間の幅も持っているのです。
ちょっと解釈に冒険がありますが、私が正しいのだというのが「省みる」。ひょっとしたら私は間違っているかも知れないというのが「顧みる」というのかも知れません。
顧みない人は、他の多くの勝れた行いをしている人たちの行為を、台なしにしてしまうというのですね。
無顧の悪人、他の勝徳を破す。という言葉も蟪蛄、春秋を識らず。伊虫、あに朱陽の節を知らんや。という言葉も、どこか共通しているように思えてなりません。
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