摂取不捨の悲願


 阿弥陀の悲願はどんな人でも必ず救い取って見捨てないということである。 
 観無量寿経の中に、上品上生じようぼんじょうしょうから下品下生げぼんげしょうまで、九通りの往生の因が説かれている。

 極楽世界に往生したいと思うならば、三種の心を起こさば、かの国に往生する。
  一つには至誠心、二つには深信、三つには回向発願心である。
また、三種の人の生き様がある。
 一つには慈心にして殺生せず、二つには大乗方等経典を読誦すること。三つには六念を修行する。・・・・・・。
 これを上品上生の者と言う。


 不善業たる五逆・十悪をつくりる諸々の不善を具えたこのような愚かな者は、その悪業によって悪道に堕する。永遠の時間を苦痛の世界に入るであろう。
 しかし、このような悪人でも、命終に臨んで正しく教えを聞き、あるいは念仏を称する事により、金蓮華を見て、極楽世界に往生することが出来る。
 極楽の蓮華の蕾の中で12大劫の時の流れの後、蕾は開き菩提の心を起こすことになる。
 これを下品下生の者という。

 仏の悲願は、○○の功徳を積んだから極楽へ行く、○○の悪を為したから地獄へ行くと決めつけ、救われる者と救われない者がはっきりしていて、救われない者は絶対救われないという事ではないのだ。

 下品下生の生き様をしている者にとっては、いつも慙愧の念に苛まれている。親鸞はそれを屠沽の者と表現し、あるいは、歎異抄で言われている、善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや、と。
 仏教は、苦しみの世界にもがいている者を救い取っていく道である。

 歎異抄の、善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや というのは悪人正機といわれているが、この言葉を曲解して、悪を起こせば救われる と、悪を是認する例が出ていたことがあった。

 悪を是認するものではない。悪をしたくなくても、悪をせざるを得ない人間の生き様を真摯に見つめていくとき、せざるを得ない悪に思い悩む者も全て救い取っていこうということである。

 バスが崖から落ちて、多数のけが人が出た。駆けつけた救急車は、誰からまず救助していくだろうか。かすり傷を負った人からか?、それとも、瀕死の重傷者からか?
 弥陀の摂取不捨の悲願は、まさに瀕死の重傷者から救い取っていくという誓願であるのだ。


 観無量寿経は、自力の道を説きつつ、実はその自力の道は、とうていあなたには不可能だから、他力の力に任せなさいと説いている。
 信心は一心と言うことであると言い切られている。
 一心とは二心ふたごころのあることではない
 あちらもこちらも頼む事ではない。やれ神様だ、やれお不動様だ・・・・。ではない。下手な鉄砲も数撃てば当たる。いや、滑り止めを受けておけば、どれかに引っかかる・・・。
 そんなのは信心とは言わない。

 つまり、阿弥陀の力を信じていないからこそ、あちこちと二股も三股もかけるのだ。
 信じない所には誹謗もおこる。


 大無量寿経の第十八番の誓願には、
 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗せんをば除く。
と、釘が刺されている。

 さて、他力とは、他人の褌で相撲を取るという意味とは全く違う。
 世の中では「他力本願」という言葉が間違って流布され、本人は何の努力もせずして利益を得ることのように解釈されているが、いやはや、実に曲解も甚だしい。

 信心は一心であるということからして、その一心を貫き通すことの如何に難しいことか。
 だれが何と言おうと、「南无阿弥陀仏です。それは、命は大事だと言うことをしっかり実行していきます。」と貫き通す事の如何に困難なことか。

 世に言う「他力本願」どころか、言い換えれば、ものすごい「自力」かもしれない。

 曲解の他力本願が、いままさに社会の中で渦巻いている。

 自分で出来ることも、役所にさせる。隣近所で一緒にすれば出来ることも役所にさせる。
 一方では「行政改革」と声高に論じ、その足を引っ張っているのは我々自身。
 どうしても、自分たちで出来ないこと以外は、役所に頼む時代は終わった。
 もう一度、「一人からのまちづくり」をしなければならない時代になった。
 そうしなければ、自分で自分の首を絞める事になる。


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