先日来、新聞紙上にて、貴方が病気の奥様の介護のため、任期を残して辞任されるいうニュースに接しました。
「市長の代わりはいても、夫は私だけです」
の言葉に、一瞬 “アッ” と声を上げるほどのおどろきでした。
実は、一昨年(平成9年)の5月頃、「多発性骨髄腫」で下半身麻痺のまま一年半ほど入退院を繰り返しておりました妻(長女が介護しておりました)の病状がやや安定したかに見えました。
その頃、私の一期目の町長職も3年目に入り、多忙な毎日でしたが、帰宅すれば娘に代わって、翌朝出勤するまでは私が介護を担当していました。5月の快い風をうけて、車椅子の妻と川堤を散歩、桜の木陰で少憩しながら、
「私の一期目の任期も来年の12月に終わる。公約の主なものは、ほとんど果たしてきた。本当は今すぐやめてもいいのだが、それでも一期の半ばで辞任することは、町民の皆さんに申し訳なく思う。この分だと、お前の病状も安定しそうだし、何とか来年の12月まで、あと一年半近く頑張ってくれれば、一期でやめて、あとはお前の介護に専念したいと思う。町長を務める人はこの町にもたくさんあるけれど、お前の杖になってやれるのは私一人しかいないからね…」。
妻はうれしそうな顔をして、
それならばうれしい。
そんな会話を交わしながら、妻は夏過ぎから不安定となり、再々入院…。
私も病院から役場に出勤する生活を続けましたが、ついに昨年3月31日、不帰の旅立ちをいたしました。
64歳、二年半の闘病生活でした。
仕事や公務優先で苦労ばかりかけた妻を、本当は任期中途でも退任して、たとえ数ヶ月でも介護に専念すべきではなかったか。
私は、口先だけで妻をよろこばせただけで、約束を果たせなかったではないか。
そんな自責の思いが心の奥深くに重く沈んでいる時、江村市長の決断を知ったのです。
娘は仕事に戻り(吹田の国際事業団)、97歳の父を施設に預け、ひとり暮らしをしながらの町長生活です。
しかし、二年半の介護生活(正確には娘の補助者ですが)を通じて、今まで全く見えなかったものが見えるようになりました。
今、「健康と福祉のまちづくり」を柱とした町政に取り組んでいます。
12月、任期満了を迎える中で、せめてもう一期との声をうけて、二期目、無投票当選で就任しました。
奥様もさぞ、およろこびでしょう。市長の決断に心からの敬意を表します。どうぞ市長も十分健康にご留意され、奥様と共に、すばらしい「今日」を生きてください。
間もなく一年になります。
多忙な毎日で、淋しさや悲しみも仕事の中に埋没していますが、やはり生きていてほしかったという思いが日増しに強くなって参ります。
今月の27日は、一周忌の法要をいたします、仏前に、私と同じ様に心から妻を愛した首長の仲間がいたことを報告して、冥福を祈りたいと思います。
兵庫県氷上郡氷上町 十倉昭三
この文章は前高槻市長の介護奮戦記『夫のかわりはおりまへん』に掲載されていた「みなさんからの手紙」の中から引用しました。
十倉さんは、私が学校を卒業以来、視聴覚教育の分野でいつもご一緒にさせていただいた方です。時には、一緒に民宿に泊まって、家族で海水浴に行ったこともありました。
町長をされたとき、たまたま通りかかった役場で、「町長さんは?」って職員の方に尋ねると、「逢っていただく」とのこと。
町長室の扉をあけるや、お互いに、「やー、やー」と、手を挙げてのあいさつに、「二人はどんな関係か?」と訝れたこともありました。
そんなお人柄から、このお手紙も「さもありなん」と、瞼を潤ませて読んだものです。
「妻失格」という詩は、女性の立場からの介護を通じて「生」を見つめたものでしたが、今度は、男性の立場からの介護を通じて「生」を見つめたものです。
どうぞ、両方を読み深めていただければと思います。
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