唯信鈔


  阿居院法印聖覚作

 それ、生死を離れ、仏道を成らんと思わんに、ふたつの道あるべし。
 ひとつには聖道門、ふたつには浄土門なり。
 聖道門というは、この娑婆世界にありて、行を立て功を積みて、今生に証を獲らんと励むなり。
 いわゆる、真言を行なう輩がらは、即身に大覚の位に昇らんと思い、法華を努とむる類いは、今生に六根の証を得んと願うなり。
 まことに教の本意、知るべけれども、末法に至り、濁世に及びぬれば、現身に覚りを得ること、億億の人の中に一人も有り難し。

 これによりて、今の世にこの門を努むる人は、即身の証においては、自ら退屈の心を発こして、あるいは、はるかに慈尊の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきの空を望み、あるいは、遠く後仏の出世を待ちて、多生曠劫流転生死の夜の雲に惑えり。
 あるいは、わずかに霊山・補陀落の霊地を願い、あるいは、再び天上人間の小報を望む。

 結縁まことに尊むべけれども、速証すでに空しきに似たり。
 願うところ、なおこれ三界のうち、望むところ、また輪回の報なり。
 なにのゆえか、そこばくの行業慧解をめぐらして、この小報を望まんや。
 まことにこれ大聖をさること遠きにより、理ふかく、覚り少なきがいたすところか。

 ふたつに浄土門というは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して、仏に成らんと願ずるなり。
 この門は末代の機にかなえり。
 まことに巧みなりとす。ただし、この門に、またふたつの筋、別かれたり。
 ひとつには諸行往生、ふたつには念仏往生なり。

 諸行往生というは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒を保ち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんと願うなり。
 これみな往生を遂げざるにあらず。
 一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆえに。
 ただ、これは自からの行を励みて往生を願がゆえに、自力の往生と名付く。

 行業、もし疎かならば、往生遂げがたし。
 かの阿弥陀仏の本願にあらず。
 摂取の光明の照らさざるところなり。

ふたつに念仏往生というは、阿弥陀の名号を称えて往生を願うなり。
 これは、かの仏の本願に順ずるがゆえに、正定の業と名づく。
 ひとえに弥陀の願力に引かるるがゆえに、他力の往生と名づく。
 そもそも名号を称うるは、何のゆえに、かの仏の本願に叶うとは言うぞというに、そのことの起こりは、阿弥陀如来いまだ仏に成たまわざりし昔、法蔵比丘と申しき。

 その時に、仏ましましき。世自在王仏と申しき。
 法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土を示めて、衆生を利益せんと思して、仏のみもとへ参りて申したまわく、
 われすでに菩提心を発して、清浄の仏国を設けんと思う。願わくは、仏、わがために、ひろく仏国を荘厳する無量の妙行を教えたまえと。
 その時に、世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の麁妙を悉くこれを説き、悉くこれを現じたまいき。
 法蔵比丘これを聞き、これを見て、悪を選びて善をとり、麁を捨てて妙をねがう。
 たとえば、
 三悪道ある国土をば、これを選びて取らず。
 三悪道なき世界をば、これを願いてすなわち取る。
 自余の願も、これになずらえて心を得べし。

 このゆえに、二百一十億の諸仏の浄土の中より優れたることを選び取りて、極楽世界を建立したまえり。

 たとえば、柳の枝に、桜の花を咲かせ、二見の浦に、きよみが関を並べたらんがごとし。
 これを選ぶこと一期の案にあらず。
 五劫のあいだ思惟したまえり。

 かくのごとく、微妙厳浄の国土を設けんと願じて、重ねて思惟したまわく、国土を設くることは、衆生を導かんがためなり。
 国土たえなりというとも、衆生うまれ難くは、大悲大願の意趣に違いなんとす。
 これによりて、往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みな容易すからず。
 孝養父母をとらんとすれば、不孝の者は生るべからず。
 誦大乗を用いんとすれば、文句を知らざる者は望みがたし。
 布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒の輩がらは漏れなんとす。
 忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠の類いは捨てられぬべし。

 余の一切の行、みなまた、かくのごとし。

 これによりて、一切の善悪の凡夫、ひとしく生れ、共に願わしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号を称えんを、往生極楽の別因とせんと、五劫の間、深くこのことを思惟し終わり、まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願を発こしたまえり。
 この願、深くこれを心得うべし。
 名号をもって、あまねく衆生を導かんと思ぼしめすゆえに、かつがつ名号をほめられんと誓いたまえるなり。
 しからずは、仏の御心に名誉を願うべからず。
 諸仏にほめられて、何の要かあらん。
 如来尊号甚分明 十方世界普流行但有称名皆得往 観音勢至自来迎 (五会法事讃)
と言える、この心か。

 さて、次ぎに第十八に念仏往生の願を発して、十念の者をも導かんとのたまえり。
 まことにつらつらこれを思うに、この願、はなはだ弘深なり。
 名号は、わずかに三字なれば、盤特が輩がらなりとも保ちやすく、これを称うるに、行住座臥を選らばず、時処諸縁をきらわず、在家・出家、若男・若女、老・少、善・悪の人をも別かず、なに人かこれに、漏れん。
 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金
 (五会法事讃)
この心か。
 これを念仏往生とす。

 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の中に、
 仏道を行ずるに難行道・易行道あり。難行道というは、陸路を徒歩より行かんがごとし。易行道というは、海路に順風を得たるがごとし。難行道というは、五濁世にありて、不退の位にかなわんと思うなり。易行道というは、ただ仏を信ずる因縁のゆえに、浄土に往生するなり
と言えり。
 難行道というは、聖道門なり。
 易行道というは、浄土門なり。

 私くしにいわく、浄土門に入りて諸行往生を努むる人は、海路に船に乗りながら順風を得ず、櫓を押し、力を入れて、潮路をさかのぼり、波間を分くるに喩うべきか。

 つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。
 専修というは、極楽を願う心を発こし、本願を頼む信を発こすより、ただ念仏の一行を努めて、全く余行を混じえざるなり。
 他の経・呪をも、保もたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号を称え、ひとえに弥陀一仏を念ずる、これを専修と名づく。
 雑修というは、念仏を旨とすといえども、また余の行をも並べ、他の善をも兼ねたるなり。

 このふたつの中には、専修を勝れたりとす。
 そのゆえは、すでにひとえに極楽を願う。
 かの土の教主を念ぜんほか、何のゆえか他事を混じえん。
 電光朝露の命、芭蕉泡沫の身、わずかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷を離れんとす。
 あに、ゆるく諸行を兼ねんや。
 諸仏菩薩の結縁は、随心供仏の朝を期すべし、大小経典の義理は、百法明門の夕べを待つべし。
 一土を願い一仏を念ずるほかは、その用あるべからずと言うなり。
 念仏の門に入りながら、なお余行を兼ねたる人は、その心を尋ぬるに、おのおの本業を執して捨てがたく思うなり。

 あるいは、一乗を保ち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土を願わんと思う心を改めず、念仏に並べてこれを努むるに、何の咎かあらんと思うなり。
 ただちに本願に順ぜる易行の念仏を努めずして、なお、本願に選ばれし諸行を並べんことのよしなきなり。
 これによりて、善導和尚ののたまわく
 専をすて雑に赴くも者は、千の中に一人も生まれず、もし専修の者は、百に百ながら生まれ、千に千ながら生まる (往生礼讃意)
と言えり。
 極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
 故使如来選要法 教念弥陀専復専
 (法事讃)
と言えり。
 随縁の雑善と嫌えるは、本業を執する心なり。
 たとえば、宮仕えをせんに、主君に近づき、これを頼みて一筋に忠節を尽くすべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた、疎く遠き人に志を尽くして、この人、主君に会いて、よきさまに言わんことを求めんがごとし。
 ただちに仕えたらんと、勝劣あらわにしりぬべし。
 二心あると一心なると、天地はるかに異なるべし。
 これにつきて、人うたがいを為さく、
 たとえば人ありて念仏の行をたてて毎日に一万遍を唱えて、そのほかは、ひめもすに遊び暮らし、夜もすがら寝ぶりおらんと、また同じく一万を申して、そののち経をも読み余仏をも念ぜんと、いずれか優れたるべき。『法華』に、「即往安楽」の文あり。これを読まんに、遊びたわぶれに同じからんや。『薬師』には、八菩薩の引導あり。これを念ぜんは、むなしく寝ぶらんに似るべからず。かれを専修と誉め、これを雑修と嫌わんこと、いまだその心を得ず
と。

いままたこれを案ずるに、なお専修を勝れたりとす。
 そのゆえは、もとより濁世の凡夫なり。
 ことに触れて障り多し。
 弥陀これを鑑みて易行の道を教えたまえり。
 ひめもすに遊びたわぶるるは、散乱増のものなり。
 夜もすがら寝ぶるは、睡眠増のものなり。
 これみな煩悩の所為なり。
 絶ちがたく伏しがたし。
 遊び止まば念仏を唱え、寝ぶり醒めば本願を思い出ずべし。
 専修の行にそむかず。
 一万遍をとなえて、その後に他経・他仏を持念せんは、うち聞くところ巧みなれども、念仏、誰か一万遍に限れと定めし。
 精進の機ならば、ひめもすに称うべし。
 念珠をとらば、弥陀の名号を称うべし。
 本尊に向かわば、弥陀の形像に向かうべし。
 ただちに弥陀の来迎を待つべし。
 何のゆえか、八菩薩の示路を待たん。
 もっぱら、本願の引導を頼むべし。
 わずらわしく、一乗の功能を借るべからず。
 行者の根性に上・中・下あり。
 上根の者は、夜もすがら、日暮し、念仏を申すべし。
 何のいとまにか、余仏を念ぜん。
 深くこれを思うべし、みだりがわしく疑うべからず。
 つぎに、念仏を申さんには、三心を具すべし。
 ただ名号を称うることは、誰れの人か一念・十念の功を備えざる。
 しかはあれども、往生する者はきわめて稀れなり。
 これすなわち、三心を具せざるによりてなり。

 『観無量寿経』にいわく
 具三心者 必生彼国 と言えり。
 善導の釈にいわく、
 具此三心必得往生也 若少一心即不得生 (往生礼讃)と言えり。
 三心の中に一心かけぬれば、生るることを得ずという。
 世の中に弥陀の名号称うる人多けれども、往生する人の難きは、この三心を具せざるゆえなりと心得べし。
 その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実の心なり。
 おおよそ、仏道に入るには、まずまことの心を発こすべし。
 その心まことならずは、その道進みがたし。
 阿弥陀仏の、むかし菩薩の行をたて、浄土を設けたまいしも、ひとえにまことの心を発こしたまいき。
 これによりて、かの国に生まれんと思わんも、またまことの心を発こすべし。
 その真実心というは、不真実の心をすて、真実の心をあらわすべし。
 まことに深く浄土を願う心なきを、人に遇うては、深く願うよしを言い、内心には深く今生の名利に着しながら、外相には世を厭うよしをもてなし、ほかには善心あり、尊きよしを表わして、内には不善の心もあり、放逸の心もあるなり。
 これを虚仮の心と名づけて、真実心に違える相とす。
 これをひるがえして、真実心をば心得つべし。

 この心を悪しく心得たる人は、よろずのこと、ありのままならずは、虚仮になりなんずとて、身にとりて、はばかるべく、恥がましきことをも、人に表わし知らせて、かえりて放逸無慚の咎を招かんと。

 いま真実心というは、浄土を求め穢土を厭い、仏の願を信ずること、真実の心にてあるべしとなり。
 必らずしも、恥をあらわにし、咎を示めせとにはあらず。
 ことにより、おりに従いて深くく斟酌すべし。

 善導の釈にいわく、
 不得外現賢善精進之相 内懐虚仮 (散善義)といえり。

 ふたつに深心というは、信心なり。
 まず信心の相を知るべし。
 信心というは、深く人の言葉を頼みて、疑わざるなり。
 たとえば、わがために、いかにも、腹黒かるまじく、深く頼みたる人の、まのあたりよくよく見たらんところを教えんに、「そのところには、山あり、かしこには、川あり」と言いたらんを、深くたのみて、その言葉を信じてん後、また人ありて、「それはひがごとなり、山なし、川なし」と言うとも、いかにも、空言すまじき人の言いてしことなれば、後に百千人の言わん言葉用いず、元聞きしことを深く頼む、これを信心というなり。
 いま、釈迦の所説を信じ、弥陀の誓願を信じてふたごころなきこと、またかくのごとくなるべし。
 いまこの信心につきてふたつあり。

 ひとつにはわが身は罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。

 ふたつには決定して深く阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂取したまうことを、疑わざれば、かの願力に乗りて、さだめて往生することを得と信ずるなり。

 世の人つねにいわく、
 仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わが身のほどをはからうに、罪障の積もれることは多く、善心のおこることは少なし。心つねに散乱して一心を得ること難し。身とこしなえに懈怠にして精進なることなし。仏の願深しというとも、いかでかこの身を迎えたまわん と。
 この思いまことに賢しこきに似たり。驕慢をおこさず高貢の心なし。
 しかはあれども、仏の不思議力を疑う咎あり。
 罪悪の身なれば救われ難しと思うべき。
 五逆の罪人すら、なお十念のゆえに深く刹那のあいだに往生を遂ぐ。
 いわんや罪五逆に至らず、功十念に過ぎたらんをや。
 罪深くは、いよいよ極楽を願うべし。
 不簡破戒罪根深 (五会法事讃)といえり。
 善少なくは、ますます弥陀を念ずべし。
 三念五念仏来迎 (法事讃)とのたまえり。
 むなしく身を卑下し、心を怯弱にして、仏智不思議を疑うことなかれ。
 たとえば人ありて、高き岸の下にありて、登ることあたわざらんに、力強き人岸に上にありて、綱をおろして、この綱にとりつかせて、われ岸の上に引き登せんといわんに、引く人の力を疑い、綱の弱からんことを危ぶみて、手をおさめてこれを取らずは、さらに岸の上に登ること、得べからず。
 ひとえにその言葉に従うて、掌をのべて、これを取らんには、すなわち登ることを得べし。
 仏力を疑い、願力を頼まざる人は、菩提の岸に登ること難し。
 ただ信心の手をのべて、誓願の綱を取るべし。
 仏力無窮なり。
 罪障深重の身を重しとせず。
 仏智無辺なり、散乱放逸の者をも捨つることなし。
 信心を要とす、そのほかをばかえり見ざるなり。
 信心決定しぬれば、三心おのずから備わる。
 本願を信ずることまことなれば、虚仮の心なし。
 浄土待つこと疑いなければ、回向の思いあり。
 このゆえに、三心異るに似たれども、みな信心に備われるなり。
 三つには、回向発願心というは、名のなかに、その義聞こえたり。

 詳しくこれを述ぶべからず。
 過現三業の善根をめぐらして、極楽に生れんと願ずるなり。

 次に、本願の文にいわく、乃至十念 若不生者 不取正覚 と言えり。
 いま、この十念というにつきて、人うたがいを為していわく、『法華』の「一念随喜」というは、深く非権非実の理に達するなり。
 いま十念といえるも、何のゆえか、十辺の名号と心得んと。
 この疑いを釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相を説くにいわく、
 五逆十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終の時にいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わずかに十辺の名号を称えて、すなわち浄土に生まる と言えり。
 これさらに静かに観じ、深く念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。
 汝若不能念 と、言えり。
 これ深く思わざる旨をあらわすなり。
 応称無量寿仏 と説けり。
 ただ浅く仏号を称うべし、と勧むるなり。
 具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪 と言えり。
 十念といえるは、ただ称名の十辺なり。
 本願の文これになずらえて知りぬべし。
 善導和尚は、深くこの旨をさとりて、本願の文を述べたまうに、
 若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (往生礼讃)と言えり。
 十声といえるは口称の義をあらわさんとなり。

一、つぎに、また、人のいわく、臨終の念仏は功徳はなはだ深し。
 十念に五逆を滅するは、臨終の念仏の力なり。
 尋常の念仏は、この力、あり難し
と、言えり。
 これを案ずるに、臨終の念仏は、功徳ことに勝れたり。
 ただし、その心を得べし。
 もし、人、命終わらんとする時には、百苦身に集まり、正念乱れやすし。
 かのとき仏を念ぜんこと、何のゆえか勝れたる功徳あるべきや。
 これを思うに、病重く、命せまりて、身に危ぶみある時には、信心おのずから発こり易きなり。
 まのあたりよの人の慣いを見るに、その身おだしき時は、医師をも陰陽師をも信ずることなけれども、病い重くなりぬれば、これを信じて、この治し方をせば病い癒えなんと言えば、まことに癒えなんずるように思いて、口に苦き味わいをも舐め、身に痛わしき治をも加わう。
 もしこの祀りしたらば、命は延びなんと言えば、宝をも惜しまず、力を尽くして、これを祀り、これを祈る。

 これすなわち、命を惜しむ心深きによりて、これを述べんと言えば、深く信ずる心あり。臨終の念仏、これになずらえて心得えつべし。
 いのち一刹那に迫りて存ぜんことあるべからずと思うには、後生の苦しみたちまちにあらわれ、あるいは火車相現じ、あるいは鬼卒まなこに遮ぎる。
 いかにしてか、この苦しみをまぬかれ、恐れを離れんと思うに、善知識の教えによりて十念の往生を聞くに、深重の信心たちまちに発り、これを疑がう心なきなり。
 これすなわち、苦しみを厭う心深く、楽しみを願う心切なるがゆえに、極楽に往生すべしと聞くに、信心たちまちに発するなり。
 命延ぶべしというを聞きて、医師・陰陽師を信ずるがごとし。
 もしこの心ならば、最後の刹那にいたらずとも、信心決定しなば、一称・一念の功徳、みな臨終の念仏に等しかるべし。

二、また次に、世の人のいわく、たとい弥陀の願力を頼みて極楽に往生せんと思えども、先世の罪業知りがたし、いかでかたやすく生るべきや。
 業障に品々あり。
 順後業というは、必らずその業を作りたる生ならねども、後後生にも果報を引くなり。されば、今生に人界の生を受けたりというとも、悪道の業を身にそなえたらんことを知らず、かの業力つよくして悪趣の生を引かば、浄土に生るること、難からんかと。
 この義まことにしかるべしというとも、疑網絶ちがたくして、自ずから妄見を発こすな。
 おおよそ、業は秤りのごとし、重きものまず引く。
 もしわが身にそなえたらん悪趣の業、力つよくは、人界の生を受けずして、まず悪道に落つべきなり。
 すでに人界の生を受けたるにて知りぬ、たとい悪趣の業を身にそなえたりとも、その業は人界の生を受けし五戒よりは、力弱しということを。
 もししからば、五戒をだにも、なおさえず、いわんや十念の功徳をや。
 五戒は有漏の業なり、念仏は無漏の功徳なり。
 五戒は仏の願の助けなし、念仏は弥陀の本願の導くところなり。
 念仏の功徳はなおし十善にも勝れ、すべて三界の一切の善根にも勝れり。
 いわんや、五戒の少善をや。
 五戒をだにもさえざる悪業なり、往生の障りとなることあるべからず。

三、次にまた人のいわく、五逆の罪人、十念によりて往生すというは、宿善によるなり。
 われら宿善をそなえたらんことかたし。いかでか往生することを得んや。
 これまた、痴闇に惑えるゆえに、いたずらにこの疑いをなす。
 そのゆえは、宿善のあつき者は、今生にも善根を修し悪業をおそる。
 宿善少なき者は、今生に悪業をこの身善根をつくらず。宿業の善悪は、今生のありさまにてあきらかに知りぬべし。
 しかるに、善心なし。
 はかり知りぬ、宿善少なしということを。われら、罪業重しというとも、五逆をば作らず。
 善根少なしといえども、深く本願を信ぜり。
 逆者の十念すら宿善によるなり、いわんや、尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。
 なにのゆえにか、逆者の十念をば宿善と思い、われらが一生の称念をば宿善浅しと思うべきや。
  小智は菩提の妨げといえる、まことにこのたぐいか。

四、次に、念仏を信ずる人のいわく、往生浄土の道は、信心を先とす。
 信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。『経』(大経)にすでに「乃至一念」と説けり。
 このゆえに、一念にて足れりとす。
 遍数を重ねんとするは、かえりて仏の願を信ぜざるなり。
 念仏を信ぜざる人とて、おおきに嘲り深く誹ると。

 まず、専修念仏というて、諸々の大乗の修行を捨てて、次に、一念の義を立てて、自ずから念仏の行を止めつ。まことにこれ魔界頼りを得て、末世の衆生を誑かすなり。この説ともに得失あり。
 往生の業、一念に足りというは、その理まことにしかるべしというとも、遍数を重ぬるは不信なりという、すこぶるその言葉過ぎたりとす。
 一念を少なしと思いて、遍数を重ねずは往生しがたしと思わば、まことに不信なりと言うべし。
 往生の業は一念に足れりといえども、いたずらに明かし、いたずらに暮らすに、いよいよ功を重ねんこと要にあらずやと思うて、これを称えば、ひめもすに称え、夜もすがら称うとも、いよいよ功徳を添え、ますます業因決定すべし。
 善導和尚は、力の尽きざるほどは常に称念す と言えり。
 これを不信の人とやはせん。
 ひとえにこれを嘲るも、またしかるべからず。
 一念といえるは、すでに経の文なり。
 これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。
 このゆえに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなく申すべきなり。
 これ、正義とすべし。
 念仏の要義多しといえども、略して述ぶることかくのごとし。
 これを見ん人、さだめて嘲りをなさんか。
 しかれども、信謗ともに因として、みな、まさに浄土に生るべし。
 今生夢のうちの契りを標べとして、来世さとりの前の縁を結ばんとなり。
 われ遅れば人に導かれ、われ先立たば人を導かん。
 生生に善友となりて、たがいに仏道を修せしめ、世世に知識として、ともに迷執を絶たん。
  本師釈迦尊 悲母弥陀仏
  左辺観世音 右辺大勢至
  清浄大海衆 法界三宝海
  証明一心念 哀愍共聴許

  草本云
     承久三歳仲秋中旬第四日
                   安居院法印聖覚作
                   寛喜二歳仲夏下旬第五日 以彼草本真筆
                             愚禿釈親鸞書写之

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