火の譬喩


 昔、人間がまだ火のおこし方を知らない頃、一人の男が火のおこし方を発見しました。その男は火の暖かさに喜び、その方法を皆に伝えようと旅に出ました。

 ひどい寒さに苦しむ村に行き、どのようにしたら火をおこせるかを教えました。まもなく村人は全員火をおこせるようになり、村中に火の暖かさと喜びがもたらされました。

 男は別の村に行き、同じように火のおこし方を教えました。しかしその村のリーダー達は火をおこすことがいかに大きな力を持つものかに気付き、その知識を自分たちだけのものにしようと決めました。そして火をおこすことを完全に覚えると、彼らは男を殺してしまいました。

 彼らはその罪を隠すため、その男のために大きな記念塔を建て、寒さから村を救ってくれたこの男の像を拝むように村人に言い渡しました。

 礼拝の仕方に関する規則が配られ、火をおこした男の話が書かれました。

 やがて村人はどのように礼拝すればよいのかを知りましたが、どのように火をおこすのかは誰も知らないままでした。

 寒さが村を襲うたび、村人は火を求め、リーダーのもとに走らなければなりませんでした。

(パート・カカヤン)


 阿闍世の生れる前、父・頻婆娑羅王と仙人との出来事について、観経疏と、涅槃経梵行品が引用されている教行信証信の巻での引用文がよく理解できないので、『教行信証を読み解く-Ⅱ』(藤場俊基さん著)の中で説明があるかなと読み進んでいくと、パート・カカヤンの話しの中に出てくる「火の譬喩」と題された一文に出合いました。

 「本願の三心」についての解説の部分で引用されていたものです。

 どんなことが「私」の周りで起こっているのか、いや、「私」自身が引き起こしているのか、とても深く考えさせられました。


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