当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。
されば、この信をえたるくらいを、『経』には「即得往生 住不退転」(大経)ととき、『釈』には「一念発起 入正定之聚」(論註意)ともいえり。
これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。『和讃』にいわく、「弥陀の報土をねがうひ*762と 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃)といえり。
外儀のすがたというは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。
つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」というは、かたちはいかようなりというとも、またつみは十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくいまします、弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。
さてこのうえには、たとい行住座臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもうべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
あつき日に ながるるあせは なみ だかな かきおくふでの あとぞおかしき
文明三年七月十八日
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