静かにおもんみれば、それ、人間界の生をうくることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおおきにまれなることぞかし。ただし、人界の生はわずかに一旦の浮生なり。後生は永生の楽果なり。
たといまた栄花にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰会者定離のならいなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年百年のあいだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもってたのみすくなし。これによりて、今時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもうべきなり。
そもそも、その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。
その正行に帰するというは、なにのようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり。かように信ずる衆生を、あまねく光明のなかに摂取してすてたまわずして、一期のいのちつきぬれば、かならず浄土におくりたまうなり。
この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの、あら、ようもいらぬとりやすの安心や。されば安心という二字をばやすきこころとよめるは、このこころなり。さらになにの造作もなく、一心一向に如来をたのみまいらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。
また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経』には、「易往而無人」とこれをとかれたり。この文のこころは、安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなしといえるは、この経文のこころなり。
かくのごとくこころうるうえには、昼夜朝暮にとなうるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。
かえすがえす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
文明六年三月三日清書之
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