いのちの教え 一緒に悲しむ暖かい心


東井義雄さんの東井義雄「いのちの教え」という本の中から
(ブックコード ISBN4-333-01571-5 C0095)

<転載許可済み>


 仏さまは、女の方には、男以上に、特別の願いをかけておいでになるのではないか、私には、そう思えてなりません。

 私が、小学校の校長を務めているときのことでした。
 ある学級の一年生の子どもが、お腹をこわして、教室で粗相してしまいました。低学年ではよくあることですから、私は、一、二年の学級には、どの学級にも、洗濯したパンツを三枚づつ常備してもらっていました。

 担任の女の先生は、汚れをきれいにして、すぐその備えつけの洗濯したパンツにはきかえさせてやってくれました。
 処置を終わって、職員室に帰り、ホッとして椅子に掛けようとしたとき、学級の子どもたちが、先生を呼びにきました。
先生、Aくん、今のをまた汚して泣いとってやで
 ということです。

 担任は、すぐに飛び出して行きました。その子は、先生が処置を終わると、すぐまた便意をもよおし、便所の方へかけだしたのですが、途中でがまんができなくなり、とうとうまた廊下でもらしてしまったのです。ワンワン泣いています。

泣かんでもいいの。元気出しなさいよ。あなたのお腹の中にあっては体のために悪いものが、みんな出てくれたんだから、先生、うれしいの。泣かんでもいいの
と、自分も泣きながら、子どもを励まし、始末をしてやってくれているのでした。

 偶然、この場にであって、私は、すっかり感激してしまいました。子どもが汚したとき、こんなふうに励ましてやれるなんて、どんな立派な教育学の本にも、どんな親切な児童心理学の本にも書いてはありません。

 子どもの悲しみが、そのまま自分の悲しみになる人でないと、こんなあたたかい智慧に輝いたことばは、生まれてくるものではありません。私は、その女の先生に、仏さまを感じました。

 私たちは、普通、親に子が授かるように考えますが、ほんとうは、子どもの育ちのために、仏さまが、仏さまのご名代として、親、特にお母さんをおさし向けになっているのではないかと思います。そして、女の方には、いつでも仏さまのご名代が務まるお母さんになれるように、願っておいでになるように思えてなりません。 -東井 義雄-


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