二河白道


仏教の教えの中で、「二河白道(にかびゃくどう)という喩えのお話があります。いま、私流の語訳を試みました。

 ふと気がつくと、人間に生まれて、「」を生きていこうとしている私がありました。人生は短いようであっても、毎日の生活の中ではいろいろな悩みや苦しみがあって、長い一日を送る毎日です。
私の周りには二つの河があります。。一つは貪欲の渦巻く水の河、もう一つは憎悪と妬みの燃えさかる猛火の河です。この河の幅はとても広く、底なしの河で、乗り越えて行くことはとてもできません。

二つの河の真ん中に、一本の細い道がついています。道の幅は4~5寸。この二つの河を通り過ごすには、この白い道を通るしかないのです。道の長さは100歩ばかり。

 この道には、水が押し寄せ、火が道を舐め、とても歩いて行けそうにもありません。困り果てて、周りを見回してみましたが、私を助けてくれそうな友達は誰一人いないのです。
 途方に暮れていると、私の心の中には、「あいつのせいだ」とか「何の因果で」とか、妄想や妬み恨みばかりが込み上げきます。行くこともならず、引き返すこともできない私。

 行こうとすると、未練や惜しみばかりがつのってきます。
 引き返そうとすると、嘲りや非難の声が気になります。

 引き返しても、私には生きる道がない。このまま行っても、生きては行けないかも知れない。どちらを選んでも生きていけないなら、この道を歩いて行くしかないと思ったとき、

こちらの東の岸から
ただ一つ心に決めてこの道を尋ねて行け。必ず死の難はない。もし止まれば死んでしまうことになるぞ。
という声が聞こえてきました。

また向こうの西の岸からは、
汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏(おそれ)れざれ。
という声が聞こえてきました。

 私が心を決めてこの道を踏み出したとき、東の岸から、
 帰って来い!。 こんな道を行くと必ず失敗するぞ。悪いことは言わん。
と、いつも楽しいときだけに集まってくる人々の声が聞こえてきました。

 私は、都合の良いときだけ私の周りに集まってくる人の声を無視して、また一歩二歩と歩いて行きました。
  私にとって都合の良いことではなく、私にとって都合の悪いこともたくさんある「真実」に導かれて、この道を渡ったとき、そこには、たくさんの本当の友達が私を待っていてくれました。良いときも悪いときも、一緒に喜び一緒に悲しんでくれる本当の友達の輪に入ることができました。


 この道を行け と私に勧めたのはお釈迦様でした。
 この道を来い と護り待っていて下さったのは如来様でした。

白い道は私に、
 自分の都合だけで生きていくのではない
ということを、私に教えていたのです。


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